明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

「情け容赦のなさ」──ジャン=マリー・ストローブによるドライヤー論

《情け容赦のなさ》





ここ数年で見たり再見することができたドライヤー作品においてなによりも素晴らしいと思うのは、それらの作品がブルジョア社会に対してみせる情け容赦のなさである。その情け容赦のなさの矛先が向けられるのは、ブルジョアの正義(『裁判長』。この作品は、わたしの知るかぎりもっとも驚くべき物語構成を持つ映画の一つでもあり、もっともグリフィス的な、つまりはもっとも美しい映画の一つである)、ブルジョアの虚栄心(『ミカエル』に描かれる愛情と室内装飾)、ブルジョアの不寛容(『怒りの日』は、その激しさによって、論理(dialectique)で、唖然とさせる)、ブルジョアの天使のような偽善(「彼女は死んだのだ。あれはもういない。天国にいるのだ」と言う『奇跡』の父親に、息子は答える。「ええ、でも僕は彼女の肉体も愛していたのです」)、そしてブルジョアのピューリタニズム(『ガートルード』はだからシャンゼリゼのパリジャンたちに好評だった)、に対してである。

他方で、『吸血鬼』(「ここには子供も犬もいない」)は、13年前にウルム街のシネマテークで見たあの日以来、あらゆる映画の中でもっとも優れた音響の映画 (le plus sonore)であり続けている。1933年にドライヤーが投げかけた次の言葉に、アミーコ*1ベルトルッチ以外の、現代のイタリアの映画作家たちはともかく耳を傾けたほうがいい。


「リアリスティックな空間を作り出そうとするのなら、音響についても同じ努力をしなければならない。この文章を書いている間、遠くで鐘が鳴るのが聞こえ、エレベーターの唸る音や、むこうで路面電車がたてるキーキーという音、市庁舎の時計の音、扉が閉まる音……などが耳に入ってくる。わたしの部屋を囲んでいる壁が目撃しているのが、机に向かって物を書いている一人の男ではなく、感動的でドラマティックな場面だったならば、こうした様々な音もまた存在し始めるだろう。そのドラマティックな場面との対照で、それらの音は象徴的な意義さえ帯び始めるかもしれない。だとすれば、これらの音を切り捨ててしまうことは正しいのだろうか……。真のトーキー映画における、真の話し方(diction)とは、本物の部屋の中にいるノーメークの顔と対応するように、普通の人たちによって話される、普通の日常的な言葉になるだろう……。」


かくも多くの若い映画作家たちがもっぱら、自分の映画に自分の思想や自分のちっぽけな意見をねじ込み、誘惑して侵す(violer)こと(つまらない教訓をたれるブレヒト主義、広告の手法や資本主義社会のプロパガンダの使用)、あるいは消え去ること(コラージュなど)ばかりを考えている今、ドライヤーの言葉に耳を傾けようではないか。


デンマークの作家ヨハネス・V・ヤンセンは、芸術を〈精神によって演じられる形式〉と定義している。まさにピッタリの定義である。チェスターフィールドは、文体(スタイル)を〈思想がまとう衣服〉とみなした。これもまたシンプルで正確な定義である。ただし、この衣服はあまり目立ちすぎてはならない。素晴らしい文体は、それ自体シンプルで正確なものであり、それを特徴づけるのは、その文体が内容とぴったり組み合わされて、一体となっていることである。あまりにも厚かましすぎて、注意を引きつけるものになってしまうと、それは文体であることをやめ、マニエリスムになってしまう……。」

「映画(それが芸術作品であるならば)のスタイルというのは、リズムとフレーミングの効果、色鮮やかな面と面の強弱関係、光と影の相互作用、カメラの計算された動き、などといった数々の構成要素からなる産物である。これらのことが、監督が題材に抱いている構想と結び付けられて、その映画のスタイルを決定するのである……。とはいえ、わたしは、技術スタッフ、カメラマン、カラー担当技師、舞台装置家などを軽んじているわけではない。しかしながら、この集団の中で、監督はやはり霊感の源であらねばならず、作品の背後にいる彼こそが、原作者の言葉をわれわれに聞かせ、情感と情熱をほとばしらせ、われわれの心を動かして、感動させるのである。

以上が、わたしの理解する映画監督の重要性とその責任である。」

「くすんで退屈な自然主義の向こう側に、もう一つの世界が、想像力の世界が存在することを示すこと。この世界の変容を見せながらも、監督は現実の世界へのコントロールを失ってはならない。この新たに作り直された世界はつねに、観客が認めることができ、信じることができるものでありつづけなければならない。抽象へと向かう最初の数段階は、巧妙かつ控えめに乗り越えられることが重要である。観客にショックを与えるのではなく、観客を新しい道へと徐々に導いてやらなければならない。」

「それぞれの主題は、ある一つの道 voie(声 voix?)を含んでいる。そこにこそ注意を向けるべきである。そしてできるだけ多くの道(声?)を表現する可能性を見つけなければならない。ある一つの形式、ある一つのスタイルだけに、自分の限界をもうけてしまうのはとても危険である……。それこそが、わたしが本当にやろうと試みてきたことである。つまり、ある一つの作品だけに、まさにこの環境、この物語(action)、この人物、この主題だけに通用するスタイルを見出すことである。」

「映画においては、ひとはユダヤ人の役を演じることはできない。ユダヤ人にならねばならないのである。」


ドライヤーがついに、カラー映画(彼はカラー映画のことを20年以上考えていた)も、キリストについての映画(国家と、反ユダヤ主義の起源に対する、崇高な反逆)も作ることができなかったことは、われわれがいま、蛙の屁にさえ値しない社会に生きているのだということを、思い起こさせてくれる。


(「カイエ・デュ・シネマ」1968年12月 207号*2からの拙訳)

*1:ジャンニ・アミーコ。『革命前夜』『ベルトルッチの分身』などの脚本家として知られる。自身も映画作家であった。

*2:«écrits» par Jean-Marie Straub & Danièle Huillet に再録。