明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ホレス・マッコイ『I Should Have Stayed Home』

広い意味で映画をテーマにした小説を〈シネロマン〉というカテゴリーで紹介していくことにした。これまでにアップした記事の中で該当するものも、このカテゴリーに新たに分類し直してある。


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ホレス・マッコイ『I Should Have Stayed Home』(38)


大恐慌時代のハリウッドで、映画監督になる夢破れた青年と、未来の見えない女優志望の女が出会い、最後のチャンスをかけて長時間のダンス・マラソン大会に出場する……。悪夢のようなダンス・マラソンを通して若者たちの希望と絶望を描いた〈ハリウッド小説〉『彼らは廃馬を撃つ』(35) は、ホレス・マッコイが、最初ハリウッドで俳優を目指し、やがて脚本を書き始めた頃に得たアイデアを元にして、後に小説に書きあげた作品だ。この小説は、のちにシドニー・ポラック監督によってジェーン・フォンダ主演で1969年に映画化されることになる(その時には、マッコイはすでに亡くなっていた)。この映画は日本でも『ひとりぼっちの青春』というタイトルで公開され話題になった。原作小説の方も早くから翻訳が出ており、読んでいる人も多いだろう。しかし、マッコイがもう一つ、この小説のすぐあとで、やはりハリウッドをテーマに『I Should Have Stayed Home』(38) という小説を書いていることは、日本ではあまり知られていないように思える。



『I Should Have Stayed Home』(「私は家に留まっているべきだった」)とは、なんだかコロナ禍の外出自粛期間のことを指しているように思えるタイトルだが、もちろん違う。「家 "Home"」とは、自宅というよりは故郷のことを指していると言っていい。この小説の主人公の青年ラルフは、南部の故郷を出てハリウッドにやってき、俳優として成功することを夢見ながら、今は安っぽいバンガローにモナという女性と同居している。同居人のモナもまた女優を目指している女優の卵だ。二人は恋人同士ではなく、姉弟のような、あるいは同じ目的を目指して闘っている同志のような存在であり、互いの生活にはあまり深く関わらないようにしているのだが、ナイーヴな(無知なという意味も含めて)*1青年ラルフと、もっと現実的でシニカルなモナとは、ときおり鋭く対立する。

物語は、女優仲間の裁判で、モナが裁判官に向かって罵声を浴びせたことがきっかけで彼女が注目され、モナとラルフがセレブの集まるパーティに招待されるところから始まる(その女優仲間はモナとラルフの共通の友達で、エキストラの仕事では食べていけず万引したために逮捕されたのだった。彼女はこの後刑務所から脱走し、ラルフたちを巻き込んだ挙句の末に自殺する)。ラルフは、そのパーティで知り合ったハリウッドに顔が利くセレブのマダムに気に入られ、彼女を通してすぐにも俳優として成功できるものと思いこむ。モナは、そんなに甘くはないと警告するが、ラルフは耳を貸さない。やがて、彼女が言う通り、マダムは彼を俳優として成功させる気などさらさらなく、年下のハンサムな恋人としてそばに置いて置きたいだけだということが彼にもわかってくる(もしもこの小説が映画化されていたなら、このニンフォマニアックの役は、『卒業』のアン・バンクロフトがまさにうってつけだったろう)。というよりも、ラルフは最初からそんなことに自分でも薄々感づいていながら、希望にすがって気づかないふりをしていたと言ったほうがいいかもしれない。この小説は、ハリウッド自体の腐敗を描いているというよりも、ハリウッドという環境が人をそんなふうに堕落させていくことをなかなかの説得力で描いている。

一方、モナのほうは、ラルフよりも現実をずっと知っていて、自分を安売りしない強さがあるが、だからといって、それで仕事がもらえるわけではない。彼女は、賃上げを要求するハリウッドの労働組合運動にもやがて関わってゆくのだが、それも結局、これといった結果も残さずうやむやのうちに終わる。モナの方が、芯が強そうなだけに、ラルフ以上に何かのきっかけでぽきりと折れてしまいそうな危うさがある。


作中に登場する脚本家ヒル(マッコイの分身と言ってもいい存在)が言うように、彼らのようなハリウッドのエキストラの存在を主人公にして小説が描かれたのは、おそらくこれが初めてであった(作中で、勇ましく啖呵を切ってハリウッドの脚本家の仕事をやめたヒルは、彼らのような無名のエキストラを主人公にした、誰も書いたことのない小説を書くのだと言っていたが、結局彼も、ハリウッドのなかで堕落してゆき、ハリウッドの真実を描いた小説のことなど半ば忘れてしまう)。


ウィリアム・ウェルマンの『スタア誕生』が撮られて話題になったのはこの小説が書かれる一年前のことである。そのタイトルの通り、無名の新人がチャンスをつかんでハリウッドのスター女優へと上り詰めてゆく映画だ。しかし、その陰で、無名のまま消えていった端役俳優たちのことなど、誰も覚えていない。そういう意味では、これは『スタア誕生』に描かれなかったハリウッドの影の部分を描いたその裏返しの小説であると言ってもいい。

むろん、今となっては、彼らのような存在を描いた物語は無数に書かれており、映画にもなっている(思いつくままに上げると、ジェームズ・エルロイの『ブラック・ダリア』、デイヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』、森崎東の『エキストラ』などなど)。その意味では、この小説は発表当時の鮮度を少なからず失ってしまっており、例えばナサニエル・ウェストの『イナゴの日』などと比べると、いささか輝きにかけることは否めない。それでも、30年代のハリウッドの黄金時代を実際に知っている作家が書いたものならではの手触りと言ったものはあちこちに感じられる。フィッツジェラルドヘミングウェイとは比べるべくもないが、この時代のハリウッドとその周辺の文学に興味があるものなら、一読しておくべき作品の一つだろう。



ホレス・マッコイが書いた小説で、映画ファンに有名な作品としては他に『明日に別れの接吻を』がある。この作品はジェームズ・ギャグニー主演で映画化され、フィルム・ノワールの古典となっている。ちなみに、ゴダールの『メイド・イン・USA』には、登場人物の一人がこの小説の仏訳を読むシーンが出てくる*2

マッコイはハリウッドで脚本家として、たいていは出来高払いで淡々と仕事をこなしていた(「ユニヴァーサルのために、年に15本か20本脚本を書いた」)。その中で数少ない例外として彼がたぶん本気を出せた作品として、とりわけラオール・ウォルシュとの2本(『鉄腕ジム』『世界を彼の腕に』)と、ニコラス・レイの『ラスティ・メン』を挙げておこう。



*1:ラルフはいつか自分が成功するものと素朴に信じ込んでいるような青年だが、決して感じの悪い人間には描かれていない。それだけに、ハリウッドのパーティに彼がモナと一緒に招待されたとき、黒人の男が白人の女と親密にしているのを見て大騒ぎする場面は、人種差別の根の深さを感じさせて生々しい。

*2:ベルナール・エイゼンシッツが言うように、彼はアメリカでよりもフランスで評価されていたのかもしれない。