明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

リヴェトの『大人は判ってくれない』論


ひさしぶりにひどい翻訳を読んだ。いや、別にひさしぶりでもないのだが、原文を読むまでもなく、これほどはっきりとひどいとわかるものを読むのはひさしぶりだった。わたしがいっているのは、『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』エスクァイアマガジン ジャパン)という本のなかに収められている、ジャック・リヴェットの「アントワーヌ家の方へ」という文章の翻訳のことである。これはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』が公開されたときに、リヴェットが「カイエ・デュ・シネマ」に書いたものだ。

たとえばこんな箇所:

『保護された』子供時代などない。自分の話をしながら、彼は私たちのことを話しているようにも見える。真実のしるし、また真の古典主義の報償は、その題材を自制するすべを心得ているのだが、突然、あらゆる範囲をできる限り制覇する。

これを読んではたして意味がわかる人がどれだけいるだろうか。ひとりとしていないはずだ。

フランスのカイエから出ている "Petite anthologie" というシリーズにはいっている "La Nouvelle Vague" という本にリヴェットの原文がはいっている。文字化けしないように原文を書くのが面倒なので、原文は書かないが、その代わりにこの翻訳部分をわたしなりに解釈してみるとこうなる。

大人は判ってくれない』でトリュフォーは、非常に自伝的な私的な物語を語ることで、実はわれわれだれにも関わる普遍的な物語を語っているのである。それこそは真の古典主義と呼ばれるべきものなのであり、真実とはそのように私的であると同時に普遍的なものであるものなのだ。何となれば、真の古典主義というのは、ある私的な主題のみを語りながら、その主題が普遍的なものへと拡大する、そのような作品のことをいうからである。

上の翻訳を読んでこういう意味だとわかるだろうか。訳している人間がわかっていないのだから、読者にわかるわけはない。「読者は判ってくれない」のだ。

この箇所は冒頭の部分だが、あとは推してはかるべき。この本にはリヴェットのほかに、エリック・ロメールやジャン・ドマルキ、アンドレ・S・ラバルトやジャン・ルーシュなどの文章が集められていて、内容は決して悪くない。しかし、翻訳がこれではしようがない。わたしが読んだのは「アントワーヌ家の方へ」だけだが、たぶんあとも似たようなものではないか。こういう寄せ集めみたいな本にはいっている翻訳はたいていひどいものと決まっている。監修は細川晋。いい仕事してますね。

わたしは高校時代に「キネマ旬報」の「読者の映画評」欄によく投稿していて、何度も掲載されたことがあったのだが、そのころこの細川氏もよく同じ欄に投稿していたのを、よく覚えている。細川氏自身はたぶんフランス語はちゃんとおできになると思うのだが、「監修」ならちゃんと監修してほしいですね。

ついでながら、「カイエ」の "Petite anthologie" にもわたしは文句がある。このシリーズは誤植が許容範囲を超えている。コンマが抜けていたり、イタリックになっていなかったり、確認できただけでも相当間違いがある。いま話題にしているリヴェットの文章でも、la prison と小文字になっているので、一読して意味が全然わからなかった箇所がある。翻訳を読んで、これはベルイマンの『牢獄』のフランス語タイトル(La Prison)であるとわかった。でたらめな翻訳でも、これぐらいの確認には役に立つ。

どちらも集められているテクストは素晴らしいのだから、もう少し編集に気を配ってほしかった。