明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。





























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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アッバス・キアロスタミ『5 five 〜小津安二郎に捧げる〜』


車のなかで人物が会話する10のシークエンスのみで構成されていた前作『10』の数字を半分にしたタイトルを持つ『5 five』は、『10』よりもさらに贅肉をそぎ落とした究極のミニマル映画だ。ここでは10のシークエンスどころか、5つのショットしかない。登場人物と呼べるべきものも存在しない。というよりも、人間が出てくるのは、2ショット目で名もない通行人何人かがロングから撮られる場面だけなのである。あとは波打ち際の木片や、砂浜を左から右、右から左に横切るアヒルの群、さざ波に揺れる水面に映る月の明かり以外は真っ暗闇の池などが延々映し出されるだけだ。

冒頭のショットでは、波に押し寄せられてはまた押し返されながら右の方へ次第に流れてゆく木片を追って、キャメラが少しずつ右に移動してゆくのだが、押し寄せる波によって砂が濡れては乾き、波打ち際の境界線が絶えず塗り替えられるのに目が奪われ、注意深く見ていないとキャメラの移動には気づかないかもしれない。五つのショットのなかでキャメラが動くのはたぶんここだけだったと思う。あとはすべてキャメラはフィックスのままだったはずだ。

5つのショットはそれぞれ20分近くただ対象をじっと捉えつづけるだけで、そこにはなんの物語も存在しない。そのはずであるのだが、じっと見続けるうちにショット内のまったくなんでもない動きがすごく重大なできごとであるかのように思えてくるから不思議だ。1ショット目の終わりのところで、波に流されていた木片の先端がくだけ、残りの木片はそのまま沖のほうに流されていって画面の上端に消える。キャメラはそのまま波打ち際をとらえつづけるのだが、しばらくしていったん消えてしまっていた木片が画面の上の方に一瞬再び現れ、そしてまた上の方に流されて消えてしまうところでこのショットは終わっている。たったこれだけのことが非常にドラマティックに見えてくるのだ。

真夜中の池をとらえた5つ目のショットでは、カエルと鳥の鳴き声をバックに、漆黒の水面に映った月がさざ波に揺れて絶えず姿を変える姿が延々映し出され、突然あたりが真っ暗になったかと思うと、激しい雷雨がおそってくる。稲光がするたびに、闇に向けてフラッシュをたいたかのように一瞬だけ画面が明るくなって、雨が水面に打ち付ける様子が浮かび上がったかと思うと、たちまちそれも残像を残して闇に包まれる。これがしばらく続いたあと再びあたりが静かになって、やがて朝になり、そこで映画も終わるのだ。

同じく小津に捧げられたホウ・シャオシェンの『珈琲時光』には小津を彷彿とさせるようなショットが多数使われていたが、この作品はスタイル的にはまったく小津とは関係がないといってもいい。しかし、同じもののくり返しのなかに現れる微妙な変化=差異をとらえようとする意志や、見つめているうちに日常そのものが非日常に反転するような不思議な感覚など、表面的なスタイルを越えたところで小津に通じるものを感じさせる作品だ。