明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

エーリオ・ヴィットリーニ『シチリアでの会話』

「私は、あの冬、漠とした怒りの虜になっていた。」(『シチリアでの会話』)


プラネットでストローブ=ユイレの『労働者たち、農民たち』と、ペドロ・コスタの『映画作家ストローブ=ユイレあなたの微笑みはどこに隠れたの?』を大阪 Planet Studio + 1で見る。『映画作家ストローブ=ユイレ』については前にどこかで書いたので、ここではふれない。そのかわりに、この作品のなかでストローブ=ユイレが編集作業を行っている映画『シチリア!』の原作、ヴィットリーニ『シチリアでの会話』について少し書くことにする。

映画『シチリア!』を見たあとで『シチリアでの会話』を読むと、ずいぶん印象が違うので驚く。ストローブの映画はシルヴェストロが研ぎ師に出会うところで終わっているが、原作では、このあともまだまだ続く。シルヴェストロは研ぎ師とともに酒場に行き、そこで研ぎ師の仲間エゼキエーレと出会う。このふたりは反ファシズムの闘士を象徴している。彼らは、「われわれ自身のためではなくて、傷つけられた世界の痛みのために」苦しんでいるシルヴェストロと意気投合する。酒場には、ファシズム体制の知識人を象徴していると思われるポルフィーリオや、体制側の特権階級・権力の象徴であるような小男コロンボも居合わせる。

シルヴェストロはやがて、毒のように甘美な葡萄酒に酔って自らを見失っている彼ら「亡霊たち」のもとを去る。墓場を通りかかったとき、無知ゆえにイタリア・ファシズム帝国の侵略戦争に加担させられて戦死した彼の弟の亡霊が現れる。

母の家にたどり着いたシルヴェストロは、弟の死をめぐって母親と議論し、それから、煙草をくゆらし、涙を流しながら、灰の舞うシチリアの街路を歩いてゆく。いつの間にか彼の後ろには、それまでに登場した登場人物たちのほとんどすべて(ファシズムと教会と王を象徴する父と母とコロンボだけはそのなかに入っていない)がぞろぞろとついてくる。彼らはファシズム国家イタリアの嘘と偽りを象徴しているような戦没者記念碑のブロンズ女性像を愚弄し合う。やがてあの兵士=弟が、「えへん」というと、居合わせたものたちは、そこにファシズム打倒の暗黙の合い言葉を認め、うなずき合う。

エピローグ。別れの挨拶をするために母の家に戻ったシルヴェストロは、こちらに背を向けてうなだれている父親(あるいは祖父)の姿を認める。長らくあっていなかった父に声をかけることなく、シルヴェストロはシチリアを去る。

シチリアの会話』が書かれたのは、ファシズム体制まっただ中の1937年。この作品にはスペイン内戦で無辜な人々を殺戮しているムッソリーニファシズム・イタリアへの強烈な批判が込められているのだが、ヴィットリーニは政権の検閲を逃れるために、ムッソリーニファシズム、スペインなどの言葉を一切使うことなく、曖昧かつ明確なメッセージを読者に聞き取らすことに成功している。でなければ、数千部も売れなかったはずだ。

シチリアの会話』は、カルヴィーノなど多くの作家に影響を与え、パヴェーゼの『故郷』とならんでイタリア・ネオレアリズモ文学の双璧といわれる作品である。しかし、実際に読んでみれば、いわゆる「リアリズム」の作品とは違うことがわかるだろう。ストローブの映画の最後に登場する研ぎ師も、原作の中ではどこか幻めいた存在として描かれている。

ストローブ=ユイレは原作の第4部の初めあたりまでをかなり忠実に映画化しているのだが、それでもカットされている部分も多い。なかでもいちばん違うところは、母親に与えられた重層的なイメージだ。

シルヴェストロは12月8日の聖名祝日に、母にお祝いを述べるために、シチリアに向けて出発する。12月8日は、聖母マリアの《無原罪の御宿り》(インマトラータ・コンツェチィオーネ)と呼ばれる主要祝日であり、しかもシルヴェストロの母親の名はコンツェチィオーネである。つまり、彼女はいわば聖母マリアとして描かれているといってもいいのだ。当然息子シルヴェストロには《イエス・キリスト》を象徴する存在となる。しかし、作品を読み進むにつれて、母親のイメージは聖母マリアから、貧しいシチリアの庶民、社会主義者の農民の娘、不義を犯す女へと、幾重にも変化する。シルヴェストロの場合も、コスタンティーノ大帝の癩病を聖水によって癒したとされるシルヴェストロ一世(ファシズムを癒すもの)をただちに想起させ、《森》(シルヴァ)を連想させる名前は作中何度も言及されるマクベスやダンテともつながってゆく。

ストローブの映画のなかでは、こうした原作の持つ象徴的で多義的なイメージはまったくと言っていいほど取りあげられていない。ヴィットリーニがこうした象徴的なイメージを多用したのは、もちろん検閲の目をくらませるためでもあった(もちろんそれだけではないが)。だから、「鋏だ、錐だ、包丁だ、槍だ、火縄銃だ、臼砲だ、鎌と槌だ、大砲だ、大砲だ、ダイナマイトだ・・・」という研ぎ師の台詞で終わる映画『シチリア!』のほうが、逆に、メッセージをより直接的に伝えているといえなくもない。

ちなみに、ストローブの次作の『労働者たち、農民たち』でも別のヴィットリーニ作品の一部を取りあげて映画化しているし、未見だが、その次に撮られた『放蕩息子の帰還』も、『労働者たち、農民たち』に登場する一人物イバラ(コミュニティから逃亡し、のちに大金を稼いで帰ってくる男)を別の角度から描いた作品になっていると聞く。『労働者たち、農民たち』を見られるまでに6年かかった。『放蕩息子の帰還』を見られるのはいつだろう。

シチリアでの会話