明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

安藤尋『今、海はあなたの左手にある』


人の気配がなく、動くもののない、写真のような風景と風景のような写真が、絶えずパン移動するキャメラの運動とともに、だまし絵的にモンタージュされてゆく。マルグリット・デュラスの『大西洋の男』のテキストがバラバラに解体されたかたちで朗読される。同じ作者の劇映画『blue』の撮影隊が去ったあとの空っぽの風景をとらえるという試み自体が、デュラスの『インディア・ソング』と『ヴェネチア時代の彼女の名前』との関係の模倣でしかない。要するに、デュラスの物まね以上でも以下でもないのだ。デュラスにインスパイアされた映画がデュラスに似てしまうというのは、作家として恥ずかしいことではないだろうか。アメリカのB級映画を模倣しようとして、まるで別の映画を取りあげてしまったゴダールが創造的模倣を実践していたといえるなら、この映画の安藤尋はデュラスを通してなにも作り出していないように思う。

それにしても、最後にクレジットを見るまでもなく日本人による朗読とわかるナレーションのフランス語のつたなさはなんなのだろう。あれはわざとやっているのだろうか。どうも、気になって仕方がなかった。『オトン』でフランス語のできない俳優たちに猛烈な早さでコルネイユを朗読させたストローブ=ユイレは確信犯だったが、この映画の作者たちはあれが変なフランス語だとわかっていないのではないか、というのがわたしの結論だ。『セザンヌ』のユイレのナレーションも変だったが、あれはすばらしいナレーションだった。この映画のデュラスを読み上げるフランス語の声には、ロラン・バルトなら「声の肌理」と呼んだであろうものの欠片もなく、単に「アテネ・フランセでフランス語を勉強しました」的なふつうのフランス語でしかない。デュラスにオマージュを捧げるぐらいなら、彼女の映画で「声」がどれほど重要であるかはわかっていると思うのだが・・・。林の中の360度パン撮影は、ストローブ=ユイレの『労働者たち、農民たち』をまねたのかもしれないが、レナート・ベルタとの格の違いを感じさせるだけだった。

黒沢清万田邦敏は、こういう映画は学生時代に卒業して、今はプロとしての仕事をしている。商業映画の括りにはいらないパーソナルな映画はもちろん存在していいし、存在すべきだと思うが、パーソナル=アマチュアということではないだろう。しかし、実際には、こういう「アート・フィルム」を撮る作家のなかにはそのへんのプロ意識が薄い人が多いように思う。ストローブ=ユイレのように厳格になることなどほかのだれにもできないだろうが、多少は見習ってほしいものだ。安藤尋の場合はどうなのだろう。わたしはこれと『blue』しか見ていないので、あまりよく知らないのだが、このあとで撮り始めた「ケータイ刑事」シリーズではどのようなプロ意識を見せているのか確かめてみたい気がする。