明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

20世紀最後の傑作〜アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を』

アレクセイ・ゲルマンフルスタリョフ、車を』★★★★


この映画を見るのは今回が2回目だ。初めて見たときは、わけのわからないパワーにただただ圧倒されっぱなしだった。見ているあいだも、見終わったあとも、「これはいったい何なんだ」という巨大な疑問符が消え去ることはなく、それは脳にできた腫瘍のように今までずっと残ったままだった。今回は2度目だし、多少の予習をしていったせいもあり、かなり冷静に見ることができたと思う。初めて見たときの衝撃が薄れてしまったのは、それはそれで残念ではあるけれど、これはどんなことについても起きることであるし、仕方がないことだ。

それにしても、この映画はいったい何なんだろう。これを見たマーティン・スコセッシは「わけがわからないがすごい」といったそうだが、たしかにスコセッシごときには逆立ちしたって撮れそうにない映画だ。

うっすらと雪の積もった夜の道をキャメラにむかって犬が駆けてくるショットから映画は始まるのだが、画面外から聞こえてくる(犬を呼ぶのであろうか)口笛の音に始まって、ボイラーマンが門の電源をショートさせる音、歩く靴の下で雪がキュッキュッという音など、冒頭から映画は様々な音を画面に反響させる。このあとも、登場人物が無意味につぶやく「プッププー」とか「ブー」といった擬音語とか、車に並行して走る子供たちの叫び声とか、果ては、瀕死のスターリンの放屁の音まで、無数のノイズが画面を覆い尽くしてゆく。これほどの音響はゴダール以来だ(Planet studyo plus one で見たのだが、スピーカーの音量が多少大きかったこともあって、くっきりはっきりと聞こえてくるサウンドはほとんど超現実主義的でさえあった)。

ゲルマンが人物たちにでたらめなしぐさをさせるやり方は、実際、ゴダールの映画を思わせる。突然画面の奥にあらわれて世迷い言をつぶやく老婦人。ダイアン・アーバスの写真から抜け出してきたかと思わせる双子のユダヤ人姉妹は、映画の語り手の幼年時代の姿である少年のズボンを無理やりおろして猥褻ないたずらをする。室内にひしめく登場人物たちは、みな自分勝手に動き回り、画面は絶えず混沌とした様相を呈している。ベレー帽をかぶり、冬なのにいつも傘を手にして、なにかをかぎまわっているスウェーデン人の記者に、ゲルマンは、まるでジャック・タチのユロ氏のような演技をさせている。記者はその傘で、だれかが扉の隙間から落ちたたばこを拾おうとしているのを助けてやり、踊るように通りを横切ってゆく。地面に置かれた傘が、だれもさわっていないのに勝手に開くギャグがなんどか繰り返される。

映画はこのように混沌としたまま進んでゆく。ときどき、いったい今どこにいるのかさえわからなくなる。部屋を横切ってゆく人物を背中から追いかけてゆくキャメラ、いつも移動する車の前に置かれたキャメラから撮影された画面が、そうした迷宮めいた空間を作り出すことに一役買っている。時間の感覚もはっきりしない。映画は第一部と第二部とに分けられているのだが、その間に実際には一日(あるいは数日?)しかたっていないはずなのに、大変な時間が流れたように感じられる。その一方で、エピローグでは、冒頭の場面で車を覗いただけで頭を殴られて逮捕されたボイラーマンが、長い投獄状態からやっと釈放されたときのセリフから、10年の年月が流れたことがわかるのだが、結局何一つ変わっていなかったかのように、彼は列車のなかで再び頭を殴られ、「どうして俺ばっかりこんな目に遭うんだ」とつぶやくのである。牢屋で覚えた英語を使って彼は「リバティ」と得意げに繰り返すのだが、ロシアの現実はそれとはほど遠いようだ。

その列車には、今やマフィアのボスとなった主人公の将軍で脳外科医ユーリーが、偶然乗り合わせている。マフィアのボスと書いたが、それは解説を読んでわかることで、映画を見ているだけでは彼が今なにをやっているのかは、さっぱりわからない。逮捕される寸前に家の裏口から逃げ出し、雪が積もって白くなった土手の陰からKGBが自宅に踏み込むのを確認して(一人称キャメラ気味の撮影)、その場を去ると、バスタブに魚が泳ぎ(猫がそのなかで溺れさせられる)細い布きれが所狭しとぶら下がっている愛人宅にかくまってもらい、軍服から私服に着替えてどこかの村にいるところを、子供たちに取り囲まれていたずらされ、そこに通報を受けてやってきたKGBに取り押さえられて、護送車で連行されるのだが、その途中でカマを掘られ、尻に棒を突っ込まれて、地獄を味わった直後に(ソルジェニーツィンによると、「護送車は人間が何でもなくなってしまう第一のプロセス」だという)、上層部の人間がやってきて、わけもわからず連れて行かれた先に、瀕死のスターリンが横たわっている。むろん、ユーリーにはどうすることもできなかったのだが、ふとっちょのベリアは彼の労をねぎらいさえし、無罪放免で釈放してやる。こうして彼は家に帰ってくるのだが、父の姿を見た少年=語り手は、彼が脱走したのだと思い、密告の電話をかけようとする。結局、ユーリーがそれを止めるのだが、その直後に、「父を見たのはそれが最後だった」というナレーションが入り、家の門の前で交通事故があって、その場面に先ほど書いたエピローグの場面がつづくのである。

彼が家族を捨ててまったく別の人生を生きているらしいことだけははっきりしている。走る列車の上で、つるつる頭にウォッカを満たしたコップを載せたユーリーが、両手に大きなスプリングを持ってバランスを取りながら、くわえたばこでキャメラに正面を向けた姿で、次第に画面奥へと遠ざかってゆく。コップの酒をこぼさずにカーブを曲がりきれるかどうかを賭けるゲームなのだ。その姿がほとんど見えなくなり、列車がやがてカーブにさしかかろうとする瞬間、「くだらねえ」というユーリーの声が聞こえてきたところで、映画は終わっている。

ユーリーにスターリンのことを「あなたのお父上ですか」と聞かれたベリアは、最初「ばかな」と答えたあとで、思い直したように、「そうだ、父だ」と言い直す。ロシアの父スターリンの死につづく、一家の父の死をこの映画は象徴的に描いているといっていい。なぞめいた交通事故の場面は、ユーリーがある意味で死んだことを象徴しているのだ(ソクーロフの描く父のイメージや、最近の『父、帰る』、あるいは、天皇崩御を象徴的に描いた青山真治の『Helpless』と比較してみるのも面白い)。第二の人生を生きる彼は、妙に幸福そうである。政権が変わってもなにも変わらない。それは悲惨なことであるのだが、ゲルマンは結局のところそんなロシアを愛しているらしい。

夜の場面ではことごとく、街頭やランプがほとんど露出オーバー気味に白くつぶれている。いったいどうやって撮ったのだろうという不思議な画面である。白黒のコダックで撮られているのだが、これをゲルマンがイメージするとおりに現像する技術はロシアにはもちろん、フランスにもなく、ただアメリカだけがそれを持っているという。ロシアで現像したフィルムはすべて捨ててしまったそうだ。今のところDVD化はされていないが、これこそは映画館で見なければ意味がない映画である。滅多に見る機会はないと思うが、どこかで上映があったときはなにを置いても駆けつけるべきだ。


追記
現在は、『フルスタリョフ、車を』ほか、ゲルマンの代表作がすべて収められた DVD-BOX が IVC より発売されている。

『ロシアでいま、映画はどうなっているのか?』(『フルスタリョフ、車を』公開時のゲルマンのインタビューが収められている)