明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ガス状の知覚に向けて〜ドゥルーズによるヴェルトフ

[ガス状の知覚に向けて]

万有変化のシステムというのが、ヴェルトフが「キャメラ=眼」において到達しようと、いや復帰しようともくろんだものだった。あらゆるイマージュは、そのすべての面と部分において、互いに関わり合って変化する。ヴェルトフは自身でキャメラ=眼を次のように定義している。「宇宙の任意の点を、任意の時間順序において、互いに接触させる 」もの。スローモーション、早回し、オーヴァーラップ、断片化、減速、マイクロ撮影、これらすべては、変化と相互作用のために用いられる。キャメラ=眼は人間の眼を改善したものでさえない。というのも、人間の眼が機械と装置の助けを借りておのれの限界のいくつかを乗り越えることができたとしても、どうしても超えることのできない限界がひとつ残るからだ。なぜならその限界こそが人間の眼が可能であるための条件をなしているからだ。その限界とはすなわち、受容器官としてのその相対的不動性であり、それによってあらゆるイマージュはたったひとつの特権的イマージュとの関係で変化することになるのだ。キャメラを撮影装置とみなすならば、キャメラも人間の眼と同じく自身の可能性の条件をなす限界にしたがっている。だが映画はたんなるキャメラではなく、モンタージュである。モンタージュは人間の眼の視点から見たときはおそらくひとつの構築であるが、もうひとつの眼の視点から見るならば、モンタージュは構築であることをやめる。モンタージュは非人間的な眼の、事物のなかに存在する眼の純粋なヴィジョンとなる。万有の変化、万有の相互作用(modulation)というのは、すでにセザンヌが人間以前の世界、「われわれ自身の黎明」、「虹色のカオス」、「世界の処女性」などという言葉で呼んでいたものだ。そうした世界はわれわれのもっていない眼にしか見えないのだから、われわれがその世界を構築しなければならないことにはなんの不思議もない。ミトリがヴェルトフの矛盾を批判するのは先入観があってのことに違いない。同じ矛盾を画家がもっていてもミトリは非難しないだろうからだ。(モンタージュの)創造性と(現実の)元の完全な状態とのあいだの矛盾は見せかけのものである 。ヴェルトフによると、モンタージュの仕事とは、知覚を事物のなかへと導き入れ、知覚を物質のなかに置いて、空間のどの点もが、それが働きかけまたそれに働きかけるすべての点を、その作用と反作用がどれほど遠くまで広がっていようと、知覚できるようにすることである。これが客観性の定義である、すなわち「境界も距離もなしに見ること」。したがってこの観点から、すべての手法が許されることになるだろう。それらはもはやごまかし(トリック)ではないのだから 。唯物主義者ヴェルトフが映画で実現したのは、「物質と記憶」の第1章の唯物論的プログラムである。すなわち、イマージュの即自。ヴェルトフの映画=眼、非人間的眼は、蝿や鷹やその他の動物の眼のことではない。それはまた、時間のパースペクティヴを与えられ、精神的全体を把握するエプスタン風の精神の眼でもない。それは逆に物質の眼、物質のなかにある眼であり、時間にしたがうのではなく時間を「打ち負かし」、「時間のネガ」に近づき、物質的宇宙とその広がり以外の全体を知らないような眼なのである。(ヴェルトフとエプスタンはここでは、キャメラ=モンタージュという同じ総体の二つの異なるレベルとして区別される)。

ドゥルーズ:『シネマ1』第5章3節の試訳。