岡本綾と相武紗季が別人だということに今朝になってようやく気づいた。よく見れば全然似ていない。なぜそんなふうに思いこんでしまったのか不思議だ。「似ている」ことの不思議。
だが、イマージュがそこにある(ガストン・バシュラール)──イマージュの問題は、根源的に、ここ、イマージュがあらわす対象の存在ではなく、いわばイマージュそのものの現前、なにものかの再現ではなく、単純に似ていることにこそありはしなかっただろうか。
[・・・]似ていること、それはあるものがそれ自体であると同時に、それ自体からのずれであること、それ以外のところでそれであることであり、あるいはむしろ、この自己同一性の間隙からのある非人称の出現、それをわれわれは似ていることと呼ぶのだろう。われわれが見ているのは、背後にあるべき対象ではなく、そのような背後を失った純粋なあらわれなのだ。いや、むしろ、似ていること、それはこの背後のないことそのもののあらわれ、軽薄なまでに表面であることの権利、純粋な外面の輝き、純粋に見られることへの呼びかけであり、それゆえに、われわれを魅惑し、われわれを、見ないことの不可能性のなかにとらえるのだ。
さもなければ、なぜ鏡はあれほどしばしば、それをこわしたいというある凶暴な欲望にひとびとを駆り立ててきたのだろうか。
宮川淳(1933-1977):
美術批評家。わずか数冊の著書を残して若くして亡くなったが、その批評は美術界のみならずさまざまな領域に影響を与えつづけている。
近いうちに兵庫県立美術館にジャコメッティ展を見に行く予定なので、その準備運動に、ひさしぶりに宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』を読み返してみた。「鏡」の一語で来たるべき思想の風景をいち早く映し出して見せたこの本は、数十年たった今もそのアクチュアリティをいささかも失っていない。
この本の中心をなしているといってよい冒頭の「鏡について」と題された論考において、宮川はジャスパー・ジョーンズ、フィリップ・ソレルス、ルイ=ルネ・デ・フォレといった実にさまざまな芸術家や作家たちについて語っているのだが、そのなかでもとりわけ特権的な地位を占めているように思えるのがアルベルト・ジャコメッティである。
ジャコメッティの芸術家としての生涯は、「キュビスムとシュールレアリスムとの影響を受けたのち実存的写実に転じ」、というぐあいに二つにわけて語られることが多い。しかし、宮川はそうした表面的な見方を退け、根源的なイマージュの体験という視点からジャコメッティの芸術を捉え直す。ジャコメッティが製作したあのやせ細った彫像の数々を、たとえばサルトルたちはおおざっぱに言って実存的リアリズムの文脈でとらえていたといっていい。それは要するに、偽りの現実に対する真の現実、現実の背後に隠されたより深い現実の姿をとらえたものと考えられていたのだ。しかし宮川はそこに、真実でも偽りでもないイマージュの「純粋な外面の輝き」を見るのである。
ジャコメッティはよく「似ていること」について語ったが、それは多くのひとが考えたように、対象に似ていることを意味していたのではいささかもなかった。でなければ、「見えるとおりに」描く、「似ている」という一見素朴な試みが、ジャコメッティにあれほどの努力と絶望を強いたわけがない。それはなにかの「再現」ではなく、なにかに「似ている」ことでもなく、イマージュそのものの現前、その魅惑であったのだ。鏡とはこのイマージュの体験にほかならない。
「鏡、それは想像力にとって、もはやなにものかのイマージュではなく、イマージュそのものの根源的なイマージュにほかならないのだ。」
もうずいぶん昔に出た本なのでとっくに手に入らなくなっていると思ったのだが、調べてみたらまだ売られているらしい。といっても、1987年発行となっているから、わたしが持っている箱入りで帯に浅田彰と中沢新一のコメントが書かれている本と同じものがまだ売れ残っていたということなのだろう。しかし、『紙片と眼差とのあいだに』や『美術史とその言説』がまだ新品で手にはいるというのは驚きだ。ただ、『引用の織物』は絶版になっているようなのが残念である。わたしがはじめて読んだ宮川淳の本はたしかあれだったと思う。てっきり手元にあるものと思っていたのに、本棚を調べてみたらなかった。図書館で借りて読んだのを買ったものと思いこんでいたらしい。残念である。マルセル・デュシャンは便器を引用したのだという宮川の説明に目から鱗が落ちる思いをしたことを思い出す。