惑星の数がふえたかと思ったらへったりと、世界ではいろんなことが起こっている。
それにしても、冥王星が惑星でなくなるかもしれないという話には驚いた。理由は小さすぎるからだとか。ホルストの『惑星』はどうなるんだと思ったが、あの曲が作曲された1916年にはまだ冥王星は発見されていなかったそうだ。占星術のみならず音楽の世界にも影響を与えるかに見えたこの事件だが、さすがに古典はこの程度のことではびくともしない。
と、そんな話はどうでもいいのだった。
1939年5月7日。フィルムを現像してネガ画像を見ると、誘惑とすまなさがつきまとう。というのも、透かして眺めるそれらのネガは、無類の魅力を持っているからだ。それに、ポジ画像を復元する焼き付けがある種の堕落の意味を持つことも、あまりに明白だ。微妙な陰影と細部の豊富さ、色調の深み、ネガを照らす夜の明るさ、そういったすべてのものも、価値転倒 inversion から生じる奇異感がなければ、やはりなにものでもないだろう。
ミシェル・トゥルニエ『魔王』(植田裕次訳)
ネガとポジの inversion というのは面白い。そもそも、技術的な必要性は別にして、フィルムはなぜいったんネガという媒介を経なければイメージをえることができないのか。
ネガを必要とするフィルムと、ネガを持たないヴィデオ=DVD的なるものとのあいだにはいかなる本質的差異があるのか。
ヴェンダースはなぜネガを持たないポラロイドカメラや8ミリフィルムにこだわるのか。デジタル・カメラを手にしはじめたヴェンダースは以前の彼とは違うのか。
あるいは、フィルムそのものを光に感光させてしまうマン・レイ(Ray!)・・・
などなど。
ところで(脈絡のない話で申し訳ないが)、『魔王』を読んでいたら、主人公=筆者が電話で時報を確かめるくだりが出てきたので、1939年に電話時報なんてあったんだろうかと気になり、調べてみた(気になることは調べないと気が済まない性格なので困る)。電話の時報サーヴィスが開始されるのは1933年のフランスにおいてだった。これぐらいのことはたいした技術がなくてもできるとは思うが、結構むかしからあったサーヴィスなのだと知ってちょっと驚いた。ちなみに、日本で電話時報が開始されるのは1955年のこと。
ついでに書くと、みすずから出ている『魔王』の翻訳に、
生死の後退の前に身を置いた群衆が「死だ! 死だ!」と叫ぶ様は、ユダヤ人たちがポンティオル・ピラトに答えて、「バラバスだ、バラバスだ!」と叫んだのに似ている。
とある。もちろん、キリスト処刑の場面のことが念頭におかれているのだが、Barabbas は「バラバ」と訳されるのがふつうである(リチャード・フライシャーにも『バラバ』という映画がある)。しかし、こう自信たっぷりに「バラバス」と書かれるとかえってこっちが自信をなくしてしまう。本当の発音は「バラバス」なのか。この本の翻訳は全体としてまあ及第だとは思うが、明らかな誤訳も散見される。はたしてこれはどうなのか。
最近は、固有名詞の表記はできるだけ原音に近いかたちで記述するというのが主流だが、あまりにも有名すぎる名前の場合はどうするか迷ってしまうところだ。ロバート・アルトマンも本当は「オルトマン」と書くほうが正しいらしいのだが、いまさら「ロバート・オルトマン」と書いてもだれもわかってくれないだろう。結局、最初が肝心ということになる。
しかし、ロナルド・リーガンのように一夜にしてロナルド・レーガンに名前が変わってしまった例もある。アルトマンも大統領になったときは、「ロバート・オルトマン」に変わるのかもしれない。