明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ウジェーヌ・グリーン、未知の彗星?


冥王星は結局惑星から除外されてしまった。地球から最も遠い場所にある太陽系の惑星が、冥界の王 Pluton (Hades) にちなんで名付けられているというのは、占星術師でなくともなかなかに魅惑的だったのに、残念である。

ハデスを辞書で調べると次のように書いてある。

Hades ギリシア神話の死者の国を支配する神。クロノスとレアの子で、ゼウスとポセイドンの兄弟にあたる。プルトンPluton(富める者の意)ともよばれるが、これは万物を生み育てる大地のもつ富の力を表し、地下の神としてその地下の富を所有することからハデスの別名となった。またローマ神話では、プルトPluto、ディースDis(富の意)などともよばれ、いずれもプルトンに由来する。ハデスにはこのほかにもいくつかの別名があるが、多くの場合、その恐ろしい本名を直接口にするのを避けて婉曲に暗示するため、これらの別名が用いられた。ハデス(またはアイデス)とは、「目に見えない」の意味と解釈されている。

「目に見えない」とはなんとも皮肉だ。冥王星はまさに惑星の風景から消えてなくなろうとしている。


おっと、またどうでもいい話をしてしまった。


今日、話題にしたかったのは、Eugène Green という映画監督のことである。

名前を聞いたことがないひとがほとんどかもしれない。別に恥ずかしいことではない。実は、わたしも今朝はじめて覚えた名前である。朝起きて、なにげに「ル・モンド」の映画欄の RSS をチェックするとニュースがアップされていたので見にいってみた。ふだんは、見出しだけ読んで、そのまま別のサイトにいくのだが、

"Eugène Green, singulier et puissant cinéaste
La publication des deuxième et troisième longs métrages de ce réalisateur américain confirme un talent étrangement méconnu."

ウジェーヌ・グリーン、風変わりで力強い映画作家
このアメリカ人映画監督の2作目と3作目の長編の発売は、不思議なほど世に知られていないひとつの才能をあらためて確証してくれる」

という文句が気になって、続きを読みにいってしまった。急いで訳すと次のようになる(見ていない作品のことなので、細かい部分は間違っているかもしれない。ご了承を)。

 ウジェーヌ・グリーンの長編第一作(「Toutes les nuits」99)──時代を1968年5月に移しかえたフローベールの『感情教育』のブレッソン風脚色──は驚きだった。このとき見いだされたのは、力強く、インスピレーション豊かで繊細な映画作家、奇妙な巴里のアメリカ人であり、ヨーロッパの文化と芸術に夢中になるあまり、30年来この旧大陸に住み続けているバロック演劇の専門家だった。
 以来、彼にまつわるニュースがわれわれのもとに必ず届くようになった。2作目、3作目の長編の発売が示しているように、それはいつもうれしいニュースである。中世を舞台にしたファンタジー「Le Monde vivant」(2003)は子供殺しの人食い鬼(生まれながらの菜食主義者であるその妻はそれゆえいっそう彼のことを恥じている)によって幽閉された王女を解放しようとする騎士の闘いを描いている。


超自然のリアリズム

この下絵はモンティ・パイソンを想起させるかもしれないが、有無をいわせぬ復活(ゴダール)、距離を置いた様式化(ブレッソン)、口をきく木々(まあ見てご覧なさい)などなどは、実際の作品をはるかに詩的な雰囲気のものにしている。これはウジェーヌ・グリーンの作品なのであり、その独自の世界は「Le Pont des arts」(2004)でいっそうはっきりとする。厳格なリアリズムで撮られながら超自然なものに敏感なこの非常に美しい映画は、一度も出会うことのないふたりの人物の愛の物語を描いている。[・・・]この作品の美しさ(ナターシャ・レニエがこれほどみごとに撮られたことがあったろうか)、その都会的ポエジー(パリがこんな風に賛美されたことが長らくあったろうか)、そのバロックリリスム(見えるもののなかにある見えないものの震えとして理解された音楽と映画)、そのあけすけな辛辣さ(上流社会のきちんとした風刺)は、この映画を知性が優美と競い合う作品にしている。

どうですか、なんだか見たくなってきませんか。

記事を読めばわかるように、これはウジェーヌ・グリーン(英語読みすると、ユージン・グリーン)の2作目と3作目の長編「Le Monde vivant」「Le Pont des arts」のDVD発売にあわせて書かれた記事である。一作目の長編「Toutes les nuits」は今のところ中古でしか手に入らないようだ。

正直いって、見てみないとなんともいえないが、わたしは買ってみてもいいと思っている。実際に見てみたら、案外たいしたことないかもしれない。しかし、こういうものに挑戦しないと新しい発見はない。というか、配給会社に優秀な人間がいて、ちゃんと働いていれば、こういう映画はとっくに公開されているはずなのである。見た映画についてあれこれ書くのも大事だが、見られなければなにもはじまらない。すぐれた批評家が百人いるよりも、すぐれた配給業者が一人いるほうがずっと有益である、とさえ思う。


映画監督にもいろいろある。星にも恒星・惑星・衛星・彗星・流星といろいろあるように、ジョン・フォードや小津といった不動の地位を築いている惑星にも似た映画作家がいる一方で、一本だけ撮って流れ星のように消えてゆく作家たちも大勢いる。惑星が惑星でなくなる場合もあるように、むかしあれほど騒がれたのに今ではまったく忘れられている作家もいる。わたしが思うに、ネットという環境、特にブログという媒体は、彗星や流星のような作家たちにこそふさわしいのではないだろうか。しかし、実際には、惑星の周りをぐるぐる回っているだけのものが少なくない。事実、この Eugene Green について日本語で書かれたページはほとんど存在しないようだ。日本ではこの作家はまだ未知の星なのである。