トゥルニエの『魔王』に次のような一節があった。カルテンボルンの指揮官が、紋章用語では右を左、左を右というと説明したあとで、次のように語るところだ。
こういった転倒には、たぶんあとから思いついたのだろうが、実際的な説明がなされている。盾というものは、それと正面から向かいあう見物者の観点からではなく、左腕に盾をもつ騎士の観点から読まれるべきだというのだ。健全な紋章の伝統を負うプロイセンの鷲は、つねに頭を右に向けている。鉤十字の描かれた柏の葉の冠を爪で押さえている第三帝国の鷲を見たまえ。頭は左へ向いている。それは左向きの鷲、不純な、あるいは貴族の家系から落後した枝葉に残された正真正銘の変種だ。もちろん、どんな党指導者もこの怪物性を正当化できない。
前々から興味があったが、こういうのを読むと紋章学についてもっと知りたくなってくる。調べてみたら、『鷲の紋章学〜カール大帝からヒトラーまで』(アラン・ブーロー)という本があった。著者はアナール学派に属する歴史家らしい。まさにうってつけの内容みたいなのだが、10年ほど前に出たばかりなのにすでに手に入らなくなっているようだ。アマゾンのマーケットプレイスでは19800円なんてばか高い値段が付いている。図書館で借りることにしよう。
ところで、上に引用したのはみすず書房の訳だが、訳文では左と右がどういう意味で使っているのかがわかりづらい。最初に紋章用語では左が右、右が左になるといったあとで、「左」といわれても、ふつうの左なのかそれとも紋章用語の左なのかはっきりしない。「プロイセンの鷲は、つねに頭を右に向けている」とあるが、ここの「右」は原文では「dextre」となっている。「dextre」は紋章用語で右を意味する言葉だ(英語では dexter)。つまり、盾をもつ騎士から見て右、簡単にいうと向かって左のことだ。同様に、第三帝国の鷲は頭を左に向けているという部分も、「左」は原文では「senestre」となっている(英語では sinister)。これは「dextre」の対概念で、向かって右を意味する。ややこしいですね。わからないひとはここに図版があります。
つまり、プロイセンの鷲は基本的に向かって左を向いているということだ。逆に、ナチスの鷲は向かって右側を向いているということになる。それは伝統的にいって非常にアブノーマルだというわけだ。しかし、ネットでちょっと調べてみただけだが、ナチスの鷲の頭の向きは、向かって右向き(つまり sinister)のものもたしかにあるが、向かって左向きのものもあるようだ。あとからネオ・ナチなんかが勝手にデザインしたものもあるだろうから、どれが正式なのかもう少し調べてみないとよくわからない。プロイセンの鷲にしても、たとえばデューラーがカール大帝を描いた絵では、鷲は sinister の方向を向いている。これはひょっとしたら、デューラーが右左を間違ったのだろうか、と、素人としては思ったりするのだが、これもよくわからない。まずは、さっきの『鷲の紋章学』を手に入れることにしよう。
ところで、わたしが紋章に最初に興味を覚えたのはナボコフの『ベンドシニスター』がきっかけだった。勘が鋭い人はおわかりのように、「シニスター」とは sinister のこと。「ベンドシニスター」は、紋章の楯の左上から斜めに引かれた筋、あるいは帯 をさし、平民を意味する言葉とされる。当然、貴族を意味する言葉は「ベンドデクスター」ということになる。
どうです、なかなか面白いでしょ?