明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジル・ドゥルーズ『シネマ』覚書(2)


第1章 「運動に関するテーゼ(第一のベルクソン注釈)」要約

>>第一節「第1のテーゼ:運動と瞬間」<<

ここでは、ベルクソンが運動に関して示した三つのテーゼが分析される。ちなみに、『シネマ』のなかでは、1、2巻あわせて合計四度、ベルクソンについての注釈がおこなわれる。これはその最初の注釈である。

 ベルクソンが運動に関して提示したテーゼはひとつではない、三つである。最初のテーゼがもっとも有名であり、これは残りの二つのテーゼをわれわれから覆い隠してしまうおそれがある。しかしながら、この第一ののテーゼは残りのテーゼの導入部にすぎないのである。この第一のテーゼにしたがうならば、運動は運動によって踏破された空間と混同されるものではない。踏破された空間は過去であるのに対し、運動は現在である、すなわち踏破するという行為である。踏破された空間は分割可能であり、無限に分割可能でさえあるのに対し、運動は分割不可能であるか、もしくは分割されればそのたびに性質を変えてしまうものである。このことは、さらに複雑な考えをすでに前提としている。すなわち、踏破されたもろもろの空間はすべてただひとつの同じ均質な空間に属しているのに対し、もろもろの運動はたがいに異質であり、相容れないということだ。


空間だけでなく時間についても同じことがいえる。たとえば、アンナ・カリーナアンヌ・ヴィアゼムスキーでもよい)が片手を挙げるという運動を、その手がつぎつぎと通っていく空間上の点、あるいは1秒後、2秒後といった瞬間に分割して考えていたら、その運動そのものを必ず取り逃がしてしまう。運動が通過していくとされるそうした仮想上の停止点や瞬間をドゥルーズは「動かない切片」(coupe immobile)と呼ぶのだが、そうした「動かない切片」をいくら積み重ねたところで運動にはならない。もろもろの「動かない切片」に連続という抽象的観念(抽象的時間)を加えてでき上がるものは偽の運動でしかない。なぜなら、「運動はつねに具体的な持続のなかでかたちづくられ、したがって各々の運動はそれ固有の質的持続をもつ」からだ。

ここで大事なのは、われわれの自然的知覚(われわれのふだんの知覚のあり方)自体が、同じようにして、運動を「動かない切片+抽象的時間」のかたちでとらえているということだ。つまり、われわれは、たいていの場合、運動の本質を取り逃がしているということになる。

では、映画はどうだろう。映画は、運動の一瞬一瞬をとらえた写真をつなげて、偽の運動をでっち上げているだけだということにならないか。それこそが、『創造的進化』におけるベルクソンの有名な映画批判なのである。

『創造的進化』のなかで、ベルクソンは悪しき公式を考え出す。映画的錯覚という公式である。なるほど、映画は相補いあう二つの与件を用いる。すなわち、一方に、イマージュと呼ばれる瞬間の切片がある。そして他方に、非人称的で、画一的で、抽象的で、不可視のまたは知覚できない運動あるいは時間がある。この運動あるいは時間は[映写]装置の「なかに」あり、装置と「ともに」イマージュが繰りひろげられるのである*1 。したがって映画は嘘の運動をもたらすのであり、嘘の運動の典型である、というのだ。だが、ベルクソンが非常に現代的で最新の名前(「映画的」)をこの上なく古い錯覚に与えているというのは興味深い。実際、ベルクソンが言うように、映画が動かない切片によって運動を再構築するとき、それはまさしくこの上なく古い思想(ゼノンのパラドックス)がやっていたことに、あるいは自然的知覚がやっていることに他ならないのだ。この点で、ベルクソン現象学と区別される。現象学にとっては、映画はむしろ自然的知覚の諸条件と手を切るものであったからだ。「過ぎゆく現実をほぼ瞬間的ないくつかの眺め(vue)に写し取る。こうして写し取ったものにはその現実の特徴が捉えられているので、それらを認識装置の底にある抽象的で、一様で、目に見えない生成にそって連ねるだけで十分である・・・。知覚、思惟作用、言語は一般にそのように振る舞うのである。生成を思考するときであれ、表現するときであれ、はては知覚するときであれ、われわれは一種の内部映画を活動させているにほかならない。」


しかし、このベルクソンによる映画批判を、ドゥルーズは批判する。それは『創造的進化』以前に書かれた『物質と記憶』でベルクソンがすでに提示していた「運動イマージュ」にたちかえってのことである(「自然的知覚の条件を超える運動イマージュの発見は、『物質と記憶』の第1章の驚くべき発明だった」)。

映画はコマを使う、つまり動かない切片、1秒間24個(初期には18個)のイマージュを使う。だが、繰り返し指摘されてきたように、映画が与えるものはコマではない、[コマとコマのあいだの]中間のイマージュである――運動が付け加わることのない、付け足されることのない中間のイマージュである。逆に、運動のほうが、直接与件として中間のイマージュに属しているのである。[・・・]要するに、映画はイマージュを与えてそれに運動を付け加えるのではなく、直接的に運動イマージュを与えるのである。映画は確かに切片を与えるのだが、それは動く切片であって、動かない切片に抽象的運動を加えるわけではないのだ。


ベルクソンを読んでいない人には、運動イマージュ(Image-Mouvement[この第1巻のタイトルでもある])といきなりいわれてもわからないと思うが、この言葉の意味は追々明らかになってくる。ここでは、『物質と記憶』のベルクソンにとって、イマージュとはものの像であると同時に、ものそれ自体であること。「見られているもののイマージュも、この世界の全体も、同じように物質の次元に属している」(前田英樹)こと、運動イマージュとは、イマージュ(=物質)そのものが運動であることを示す言葉だということ、こういったことをとりあえず念頭においておけばよい。そして、ドゥルーズは『物質と記憶』で提示されたこの概念のなかに映画の可能性の中心を見てとっている。

しかし、不幸にしてベルクソンと映画はすれ違ってしまう。先ほどいったように、『物質と記憶』の後で書かれた『創造的進化』のなかで、ベルクソンは映画のイメージを偽の運動として批判するのである。ちなみに、『物質と記憶』が書かれたのは1896年。映画の公式上映が1895年12月28日だから、その数ヶ月後に出版されたことになる。『物質と記憶』の出版前にベルクソンが映画を見ていたかどうかは定かでないが、この本には映画についての直接的言及はない。映画をまだ見ていなかったからこそ『物質と記憶』のベルクソンは映画の本質に迫るような思想を展開することができたのだろうか。『創造的進化』のベルクソンは、まだ演劇に追随していたころの生まれたての映画を見てしまったために、性急な映画批判をおこなってしまったのだ。「初期の映画の状況はいかなるものであったか。一方では、キャメラは固定され、したがってショットは空間的でまったく不動であった。他方では、キャメラは映写機と区別されておらず、抽象的で一様な時間を授けられていた。映画の発展は、映画固有の本質あるいは新しさの獲得は、モンタージュ、動くキャメラ、映写とは別のものとしての撮影の解放などによってなされるであろう。その時ショットは空間的なカテゴリーであることをやめ、時間的なものとなるであろう。切片は、動かないものではなく動く切片となるであろう。映画はまさしく、『物質と記憶』の第1章の運動イマージュをふたたび見出すであろう」。

運動についてのベルクソンの第一のテーゼは最初に思われたよりも複雑であると結論しなければならない。一方で、踏破された空間でもって運動を再構築しようとする、つまりは瞬間的な動かない切片と抽象的な時間を足し算することで運動を再構築しようとするあらゆる試みに対する批判がそこには含まれている。他方で、映画をこうした錯覚的試みのひとつとして、こうした錯覚を極端にいたらせたものとして告発する、映画批判が含まれている。だが、動く切片、時間の平面という『物質と記憶』のテーゼも存在するのであり、それは映画の未来と本質を予言的に提示していたのである。

>>第2節[第2のテーゼ:特権的瞬間と任意の瞬間]<<

ここでは、運動についてのベルクソンの第二のテーゼにのっとって、映画が見せる瞬間がいかなるものであるかが論じられる。

第一のテーゼにおいて、「運動を瞬間や位置でもって再構成する」錯覚が批判されたのだが、実は、その再構成のやり方には、古代の[形而上学]やり方と、近代の[科学]やり方の二通りがある。

形而上学の場合、運動は、その本質を示しているような重要な瞬間(特権的瞬間、ポーズ、形相)の連続としてとらえられ、その間にはさまれた部分は無視できるものとみなされる。

一方、近代科学の場合、運動は、等間隔に区切られた任意の瞬間(どの瞬間も等価値であるような瞬間)と結びつけて考えられる。映画的イメージもまた、このような任意の瞬間によって構成されている。

映画はベルクソンが明らかにしたこの系譜の末裔にあたるように思える。移動手段のセリー(列車、自動車、飛行機・・・)と平行して、表現手段のセリー(描画、写真、映画)を考えることができよう。その時キャメラはこのふたつのセリーの交わる立体交差のようなものとして、というよりも移動の運動の一般的な等価物として現れるだろう。このようにして、キャメラヴェンダースの映画に登場するのである[ヴェンダースにおける運動とキャメラの関係については、次の第2章、第6章においてもふれられる]。[・・・]映画を決定づける条件は以下のことである。すなわち、たんなる写真ではなく瞬間写真であること(ポーズの写真は別の系譜に属している)。各瞬間が等距離にあること。この等距離が、「映画」をかたちづくる支持体[つまりフィルム]に転写されること(フィルムにパーフォレーションの穴をあけたのはエジソンとディクソンだった)。イマージュを駆動するメカニスム(リュミエールの考案によるフィルムを引っかけて移動させる爪形器具)。以上である。この意味において、映画は、任意の瞬間にしたがって、つまり連続の印象を与えるように選ばれた等距離[等間隔]の瞬間にしたがって、運動を再生するシステムである。

たしかに、映画のなかにも特権的瞬間と呼びたくなる瞬間はある(たとえば、『戦艦ポチョムキン』で、立ち上がるライオンの石像)。しかし、それらは、任意の瞬間から引き出されたたんに傑出した(remarquable)または特異な(singulier)な瞬間にすぎず、それ自身も任意の瞬間なのである。また、アニメーションも、ポーズではなく、等距離におかれた任意の瞬間の連続によって映像を構成していく点で、映画であることが確認される。

映画が運動についてのこうした近代的な考え方に完全に属すものであることを、ベルクソンは力強く示している。だが、その先で進むべき二つの道のあいだで彼はためらっているように思える。一方の道は彼を第一のテーゼへと連れ戻し、もう一方の道は新たな問いを開く。第一の道にしたがうなら、運動についてのこのふたつの考え方[古代のそれと近代のそれ]は、科学的観点から見れば非常に異なるものかもしれないが、結果においてはほとんど同じである。実際、運動を永遠のポーズで再構成すること[形而上学]と、動かない切片で再構成すること[近代科学]は、結局同じことなのである。どちらの場合も、運動は取り逃がされる。なぜなら、ひとつの全体(le Tout)が与えられ、「すべてが与えられた」とひとはみなすのだが、運動というのは、全体が与えられず、与えることができないときにのみ起こるものなのだ。[・・・]だが、もうひとつの道がベルクソンに開けたように思える。というのも、もしも、[運動についての]古代の考え方が、永遠を思考しようとする古代の哲学に対応するものであるとするなら、近代の考え方、つまり近代科学はいまひとつの哲学に呼びかけるものであるからだ。運動を任意の瞬間に結びつけるとき、これらのどの瞬間においても、新しさの産出が、つまりは傑出したものと特異なものの産出が可能となるはずである。これは哲学の完全な転換であり、これこそがベルクソンがやろうとしたこと、すなわち近代科学にそれにふさわしい形而上学を授けることである。この形而上学は、あたかも全体の半分が欠けているように、現代科学に欠けていた。だが、この道にとどまることはできるだろうか。芸術もまたこの転換をしなければならないことを否定できるだろうか。そして映画はこの転換に欠かせない要因であり、この新たな思考、新たな思考方法の誕生と形成においてはたすべき役割をもってさえいることを、否定することができるだろうか。だから、ベルクソンは、運動についての第一のテーゼを確認することで満足することはもうできないのである。途中で立ち往生してしまったとはいえ、ベルクソンの第二のテーゼは映画についてのいまひとつの視点を可能にする。それによると映画は最も古い錯覚の完成された装置ではもはやなく、新しい現実の未完成の装置なのである。

*1:『創造的進化』753(305)頁。ベルクソンの引用はいわゆる Centenaire 版による。括弧のなかに、普及版(P.U.F.)のページを示してある。[岩波文庫358頁]