明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。






























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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジル・ドゥルーズ『シネマ』覚書(4)


『アート・アニメーションの素晴らしき世界』という本のなかで筒井武文が面白いことを書いている。

いわゆる実写は、その意味では静止写真ではない。実写には一コマに「時間」が刻まれている。ふつうの映画は1秒24コマですね。しかし、コマが送られる時間が必要だから、シャッターが間欠運動で閉まったり開いたりすると、仮にシャッターの開角度が180度だったとすると、一コマは24分の1秒じゃなく48分の1秒になるんですね。一コマの時間には48分の1秒の時間が凝縮されている。48分の1秒よりも動きの速いものは写っていないかもしれないし、ゆるやかに動いているものはその48分の1秒でぶれてるわけです。[・・・]要するに、現実の時間の半分を写し取ってるわけですよね。映写するときも同じで、写ってない間の時間があるわけです。


映画は世界の半分を取り逃がしている・・・。

考えたこともなかったことなので、思わず目が点になってしまった。

ところで、最近、ひさしぶりにリュミエール兄弟の作品をまとめて見直した。周知のように、このころの映画は、フィルムの感度がいまほどすぐれていなかったので、明るい陽光のなかでしか撮影できなかった。つまり、夜の世界は写すことができなかったのだ。リュミエール兄弟が撮影したリヴァプールのライム・ストリートは、夜の女たちが出没する場所として知られていた(いる?)という。しかし、むろん、そのフィルムには、明るい日差しを受けて散歩する紳士たちの姿しか写っていない。リュミエールの映画は世界の半分を取り逃がしていた。いや、筒井武文の話と合わせると、世界の4分の3を取り逃がしていたということになる。なんだかめまいがしてきそうだ・・・

それにしても、リュミエール兄弟が撮影した映像はなぜこれほどに美しいのだろうか。毎日テレビのニュース番組で流されているのと一見大差のない他愛もないイメージが、どうしてこれほど見るものの心をとらえてしまうのか。これがショットの力というやつなのかもしれない。それとも、これは、かつてあったものに対するただのノスタルジーにすぎないのだろうか。


さて、『シネマ』の第2章では、そのショットが分析される。哲学に不慣れなひとは、第1章のベルクソン注釈ですでにうんざりとしてしまっているかもしれないが、このあたりから映画についてのより具体的な分析になっていくので安心してほしい。



第2章「フレームとショット、フレーミングとデクパージュ」
第1節の要約

[第1の水準:フレーム、閉じた総体またはシステム]

前章の復習をしておこう。ベルクソンの三つのテーゼから、

  • 総体(ensemble):閉じたシステム。
  • 運動:一方では、総体における諸部分の相対的な位置の変化。他方では、全体の質的な変化、すなわち持続の動く切片。
  • 全体(tout):開かれたもの。持続。

という図式ができあがったのだった。これらはそれぞれ映画におけるフレーム、ショット、モンタージュと対応している。


第1節で論じられるのは、総体=閉じたシステムに対応するフレームである。

あとで修正することになるかもしれないが、まずは非常に単純な定義から出発しよう。舞台装置、人物、小道具など、イマージュのなかにあるものすべてをふくんでいる、比較的閉じたシステムを限定することをフレーミング(cadrage)と呼ぶ。したがって、フレームは多くの部分、つまり要素(élément)をもつひとつの総体(=集合)であり、これらの部分がまたいくつかの小さな総体(部分集合)に属している。これらの部分については割り引いて考えることもできる。むろん、これらの部分自体もイマージュである。ヤコブソンがそれらは事物=記号(objets-signes)であるといい、パゾリーニがそれらは「映画素 cinème」であるというのは、それゆえである。とはいえ、この用語法は言語との比較(映画素は音素 phonème に、ショットは記号素 monème にたとえることができよう)をほのめかしているが、この比較は必要ないように思える*1。というのも、フレームの類似物があるとすれば、それは言語学ではなく、むしろ情報処理システムだからである。[フレームの]要素は非常に多数のデータであることもあれば、ごく少数のデータであることもある。したがって、フレームは飽和化するか希薄化するかのどちらかの傾向と切り離しがたい。とりわけ大画面とパン・フォーカスによって独立したデータの数が増大すると、その結果として、副次的な場面が前景にあらわれ、逆に中心となる場面が背景に描かれたり(ワイラー)、あるいは中心となる場面と副次的な場面がもはや区別できなくなりさえする(アルトマン)。逆に、希薄化したイマージュが生まれるのは、ただひとつの事物にアクセントがおかれる場合だったり(『断崖』で内側から照らされるミルクのコップ、『裏窓』で窓の黒い矩形のなかに浮かび上がるたばこの火)、あるいは総体(ensemble)がその下位区分である部分集合(sous-ensemble)をいくらか欠いている場合である(アントニオーニの無人の風景、小津のがらんとした室内)。希薄化の極限は、スクリーンが真っ黒あるいは真っ白になるとき、空虚な総体[要素をもたない集合]という形で達せられるように思える。その一例がヒッチコックの『白い恐怖』で、さっきとは別のミルクのコップがスクリーン全体を覆い、空虚な白いイマージュしか見えなくなる場面である。だが、希薄化あるいは飽和化という二つの方向について、フレームがわれわれに教えてくれることは、イマージュはたんに見られるだけのものではないということである。イマージュは見られるものであると同時に読まれるものでもあるのだ。フレームには、音声的でありまた視覚的でもある情報を記録するという暗黙の機能がある。われわれがイマージュのなかにあまりにもわずかのものしか見ないとすれば、それはわれわれがイマージュを読むのが下手だからであり、イマージュの希薄化と飽和化を正しく評価できていないからである。とりわけゴダールとともに、イマージュの教育学とでもいうべきものがあらわれる。そのとき、イマージュのもつこの機能は明白なものとなり、フレームは情報をふくんだ不透明な表面と化して、あるときは飽和化によって濁り、あるときは白または黒のスクリーンという空虚な総体へと還元されることになるだろう 。


ドゥルーズは映画を言語をモデルに論じることを拒絶している。ここにもその一端がのぞかれるが、これについては第2巻の第2章で詳細に論じられることになるだろう。



[フレームの諸機能]

これにつづいて、ドゥルーズはフレームのもつ諸機能について論じていく。たとえば次のような箇所など興味深い指摘も多い。

総体が部分に分割されるときは、そのたびに必ず性質を変える。つまり総体は分割可能な(divisible)ものでも、分割不可能な(indivisible)ものでもなく、dividuel なものなのである。[・・・]映画イマージュはつねに dividuel なものである。その究極の理由は、フレームのフレームとしてのスクリーンが、共通の尺度を持たないもの――遠景の風景と顔のクロースアップ、天文系と一滴の水などといった、距離、奥行き、光において同じ分母を持たないもろもろの部分――に共通の尺度を与えるものだからである。これらすべての意味において、フレームはイマージュの脱領域化を保証するものである。

とはいえ、全部を拾っている余裕はない。ここでふれられるドライヤーやエイゼンシュタインドイツ表現主義などについては、個々の作家や流派が話題になるときに詳細に語り直されるので、省略する。簡単にまとめると、制限するものとしてそれ自体において考えられるとき、フレームは、幾何学的である(ドライヤー、アントニオーニ)か、物理的-力学的である(エイゼンシュタイン、ガンス)かのどちらかである。その諸部分の性質において考えられるときもまた、フレームは幾何学的であるか、物理的ないしは力学的である、ということになる。

フレームはさらに、フレーミングのアングル(視点)ともかかわっている。映画においては、ときに奇抜なアングルから撮られた画面が見られるが、そのようなアングルもプラグマティックな観点から、正当化されなければならない。とはいえ、そのようなプラグマティックな観点からはまったく正当化できない異常なアングルも存在する。パスカル・ボニゼールが、イマージュの別の次元とかかわっているような異常な視点を示すために作り上げた「デカドラージュ(脱フレーミング)」という概念にふれつつ、これは「視覚的イマージュというものが、可視的な(visible)機能を超えたところで可読的な(lisible)機能を持つことを証明するものであるかもしれない」と語られる。ここでは簡単にふれられているが、「lisible」という概念は、第2巻でかなり重要になってくる。


[フレーム外:その二つの側面]

この説でもっとも興味深いのは「フレーム外」という概念である。長いが引用する。

 フレーム外(hors-champ)の問題が残っている。フレーム外は否定ではない。またそれを視覚的なフレームと聴覚的なフレームのあいだの不一致として定義するのも十分ではない(たとえばブレッソンにおいて、音が目に見えないなにかの存在を示し、見えるもの(le visuel)を補強するのではなく、中継するとき) 。フレーム外は、聞こえもしないし見えもしないがたしかにそこにあるなにかと関わりをもっているのである。たしかに、このなにかの存在は問題であり、フレーミングについての新たなふたつの考え方ともかかわってくる。マスクか額縁(cadre)かというバザンの二者択一をふたたび取り上げるなら、フレームは動くマスクとして働き、そのマスクの動きに応じて総体全体が、それと関わりを持つさらに広い同質の総体のなかへと吸収されてゆく場合もあれば、フレームはまた、あるシステムを孤立させて環境を中立化する絵画的な額縁として働く場合もある。フレームのもつこの二元性はルノワールヒッチコックに典型的に現れている。ルノワールにとって、フレームはある領域から一部を取り出したものにすぎず、空間とアクションはつねにフレームの限界を超えている。一方、ヒッチコックにおいては、フレームは「あらゆる構成要素を閉じこめること」であり、絵画や演劇というよりもタペストリーの額縁のようなものとしてある。だが、ある小さな総体(ensemble partielle)が、フレームのもつ肯定的性格と再フレーミングによってしか、形式上そのフレーム外と通じ合うことがないとしても、閉じた、極めて閉ざされたシステムがフレーム外を消し去るのは見かけだけのことであり、こうした閉じたシステムは独自のかたちでフレーム外に[動くマスクとしてのフレームの場合と]同じぐらい決定的な、いやそれ以上に重要な決定性を与えていることもまた本当なのである 。どのフレーミングによってもあるフレーム外が確定される。二種類のフレームがあって、その一つだけがフレーム外と関わっているというわけではなく、むしろフレーム外には非常に異なる二つの側面があり、そのそれぞれがあるフレーミング方法と関わっているのである。
 物質の可分性が意味するところは、もろもろの部分はさまざまな総体に属していて、これらの総体はたえずその部分集合(sous-ensembles)へとさらに分割されるか、それ自体がより大きな総体の部分集合であり、そしてこれが無限に続くということである。だから物質は、閉じたシステムを形づくろうとする性質があると同時に、その閉じたシステムが決して完成しないことによって定義される。あらゆる閉じたシステムはまた交流しあっている。コップ一杯の砂糖水を太陽系につなぎ、どのような総体もそれより大きな総体につなぐ一本の糸がつねに存在する。これがフレーム外と呼ばれるものの第1の意味である。すなわち、ある総体がフレームに収められるとき、つまりは見られるとき、つねにそれよりも大きな総体が存在する。あるいはそれとは別の総体が存在し、それが最初の総体と合わさってより大きな総体を形づくり、その第二の総体が今度は見えるようになるのだが、その第二の総体が新たなフレーム外を出現させる、などなど。これらすべての総体をふくむ総体は、ひとつの同質な連続体、ひとつの宇宙、または文字通り無制限な物質の一平面をかたちづくる。だがたとえこの物質の平面、ますます大きくなるこれらの総体が必然的に全体と間接的な関係をもっているにしても、それは《全体》ではない。すべての総体をふくむ総体を全体とみなすとき、人が陥る解決しがたい矛盾は知られている。それは全体の観念が無意味だからではない。そうではなく、全体は総体ではなく、部分をもたないからである。全体とは、どんなに大きい総体であれそれがそれ自身に閉じてしまわないようにし、その総体がさらに大きな総体のなかに吸収されるようにするものである。したがって全体とは、もろもろの総体を横切る糸のようなものであり、それぞれの総体に別の総体と次々と無限に交流する可能性、必ず実現される可能性を与えるものである。かくして全体は《開かれたもの》であり、物質や空間ではなく、むしろ時間やさらには精神とさえ関わりをもっている。総体が別の総体のなかに次々と吸収されて大きくなっていくことと、各総体を横切ってゆく全体が開かれていること、このふたつがどのような関係にあろうと、混同すべきではない。閉じたシステムは決して完全に閉じてはいない。閉じたシステムは、空間のなかで《細い》糸によって別のシステムと結びつけられる一方で、この糸にそって持続を伝える全体へと統合または再統合される 。それゆえ、ノエル・バーチのように、具体的な空間とフレーム外の想像的な空間を区別し、想像的な空間は視野(champ)に入ってくるとき、つまりフレーム外(hors-champ)でなくなるとき具体的なものとなるとするだけでは不十分である。フレーム外はそれ自身において、あるいはそのままで、性質の異なるふたつの側面をすでにもっている。フレーム外の相対的側面にしたがうなら、閉じたシステムは、空間において、目に見えない別の総体と関わりをもち、その別の総体が今度は目に見えるようになると、この別の総体がまた別の見えない総体を出現させる。これが無限につづく。絶対的側面に従うなら、閉じたシステムは、宇宙の全体に内在する持続へと開かれていて、この全体はもはや総体ではなく、見えるものの次元にも属していない 。《プラグマティックに》正当化されないデカドラージュは、その存在理由としてまさにこの第二の側面と関わりをもっているのである。
 一方で、フレーム外は、別の場所、傍ら、あるいはその周囲に存在しているものを指し示している。他方で、フレーム外はさらに不安ななにものかの存在を示しているのであり、そのなにものかは存在しているとさえもはやいうことができず、むしろ「固執する(内に存在する)insister」あるいは「存続する(下に存在する)subsister」とでもいうべきものであり、同質的な空間と時間の外にあるラディカルな《別の場所》(l'Ailleurs)なのである。なるほど、フレーム外のこの二つの側面はつねにごたまぜになっている。だが、フレーム化されたイマージュを閉じたシステムとみなすとき、「糸」の性質に応じて、そのどちらかの側面が他方の側面よりも優位にあるということができる。目に見える総体を見えない別の総体につなぐ糸が太ければ太いほど、フレーム外は、空間に空間を足していくという第1の機能をさらに強める。だが、糸が非常に細いとき、糸はフレームの閉鎖を強めたり、外との関係を消し去るだけではない。なるほど、糸は比較的に閉じたシステムの完全な孤立を保証するものではないし、そんなことは不可能であろう。だが、糸が細ければ細いほど、持続が蜘蛛のようにシステムのなかに降りてきて、フレーム外はそのもうひとつの機能を発揮する。つまり、決して完全に閉じているわけではないシステムに、超空間的なものと精神的なものを導入するのである。ドライヤーはこれを禁欲的な方法にしていたのだった。イマージュが空間的に閉じ、二次元に還元されればされるほど、イマージュは時間に他ならない第4の次元へと開かれ、また、ジャンヌやゲアトルードの精神的な決意、つまり《精神》に他ならない第5の次元へと開かれる 。アントニオーニの幾何学的フレームを定義しながら、クロード・オリエは、待たれている人物はまだ画面に見えない(フレーム外の第1の機能)というだけでなく、空虚な地帯に、おそらくは不可視の、「撮影不可能な白地の上の白」に一時的にいるのである(第2の機能)、といっている。別の流儀で、ヒッチコックのフレームは、環境を中立化し、閉じたシステムをできうるかぎり遠くまで押し進めて、イマージュのうちに最大限の構成要素を閉じこめるだけでなく、同時に、イマージュを、(後で見るように)全体を織りなす純粋に思考された関係の戯れへと開かれた、精神的イマージュに変えるものである。だから、すでにいったように、この上なく閉ざされたイマージュのなかにさえ、フレーム外はつねに存在するのである。そして、他の総体との現勢化可能な関係と、全体との潜勢的な関係という、フレーム外のふたつの側面が同時に存在するのである。だが、一方において、よりなぞめいている第二の関係の方は、第一の関係によって仲介され、それを拡張することによって、イマージュの連続のなかで、間接的に、決して完了しないかたちで、達せられるだろう。他方で、第二の関係は、第一の関係を制限し、中性化することによって、イマージュそのもののなかで、直接的に達せられるだろう。


この節全体をドゥルーズ自身が要約している箇所を引用して、終わる。

このフレームについての分析の結果を要約しよう。フレーミングは、ある総体にふくまれるあらゆる種類の部分を選びとる技術である。この総体は、相対的かつ人為的に閉じたシステムである。フレームによって規定される閉じたシステムは、それが観客に伝えるデータとの関係で考えることができる。すなわち、フレームは情報処理的なものであり、飽和化するか希薄化するかのどちらかである。制限するものとしてそれ自体において考えられるとき、フレームは、幾何学的であるか、物理的-力学的であるかのどちらかである。その諸部分の性質において考えられるときもまた、フレームは幾何学的であるか、物理的ないしは力学的である。視点との関係、フレーミングのアングルとの関係で考えるとき、フレームは光学的システムである。そのときフレームはプラグマティックに正当化されるか、より高い次元で正当化されなければならない。最後に、フレームは、それを拡張してゆくより大きな総体というかたちにおいてか、ないしはフレームを統合する全体というかたちにおいて、フレーム外を規定するものである。

*1:パゾリーニ『異端的経験』、263-265ページを参照