明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジル・ドゥルーズ『シネマ』覚書(5)


『シネマ 2』の翻訳がこの10月に出版されるという話もあるようだが、思った通りまだ出ていないようだ。まあ、まだ10日ほどあるので出ないと決まったわけではないが・・・(ちなみに、『シネマ 2』では、ストローブ=ユイレについての非常に興味深い論考を読むことができる。その意味でも翻訳が待たれるところだ)。

さて、気まぐれにやっている『シネマ』の要約だが、まとめるのが面倒なので今日はそのまま訳すだけにする。前回は、フレームについての考察だった。今回は、その続きで、ショットとはいかなるものかが、これまでの流れにそって、「総体(集合)とその部分」、「全体」などといったタームを使って分析される。フレームとショットの違いがわかりにくいが、ショット - 運動 = フレームととりあえず考えておけばいいのではないか。

おもにヒッチコックムルナウの作品を対象に具体的な記述がつづくところである。要約してしまうとおもしろみが欠けてしまうだろう。ヒッチコックといえば、長らく手に入らない状態になっていたロメールとシャブロルによるあの有名なヒッチコック論が最近になってやっと再版された。図書館で借りて目は通したことがあるが、手元に置いておけることができるようになったのはうれしい。もちろん、わたしはもう購入した(まだ届いていないが)。

2-2
[第2の水準:ショットと運動]
 デクパージュとはショットを規定することであり、ショットとは、閉じたシステムのなかで確立される運動を規定することである、つまり、総体の諸要素や諸部分のあいだに確立される運動を規定することである。しかし、すでに見たように、運動は全体とも関わりをもっており、また全体は総体とは本来別物である。全体とは変化するなにかであり、「開かれているもの」あるいは持続である。したがって運動は全体の変化を、あるいはこの変化の一段階、一側面をあらわし、持続または持続の一節をあらわす。このようにして、運動は、表と裏、表面と裏面のように切り離しがたい二つの側面をもっている。つまり、運動はもろもろの部分どおしの関係であり、また、全体の情動(affection)である。一方で、運動はある総体の諸部分のそれぞれの位置を変更する。このとき、それらの諸部分は、それ自体としては動かない運動の切片のようなものとしてある。他方で、運動それ自体は、それが変化をあらわしている全体の動く切片である。一方の側面において、運動は相対的である。もう一方の側面において、運動は絶対的である。何人かの人物が動き回る固定ショットを考えてみよう。彼らはフレームに収められた総体のなかで、それぞれの位置を変更する。しかし、この変更が、変化しつつあるなにかを、すなわちこの総体を通り過ぎる全体のなかで起きる微細ですらある質的変化をあらわしていないならば、この変更はまったく恣意的なものになってしまうだろう。キャメラが動き回るショットを考えてみよう。キャメラはある総体から別の総体へと移動し、それぞれの総体の位置を変更する。こうしたことすべてが必然性をもつのは、この相対的な変更が、これらの総体を通り過ぎる全体の絶対的な変化をあらわしている場合だけである。たとえば、キャメラが階段を上る一組の男女の後を追い、ふたりはドアの前にきて男がドアを開ける。ついでキャメラはふたりを残して同じひとつのショットのまま後退し、部屋の外の壁にそって進み、ふたたび階段のところまできて後ずさりしながら階段を下り、舗道に出ると、屋外から部屋の曇りガラスの窓のところまで上昇する。この運動はいくつかの不動の総体の相対的な位置を変更するものであるが、この運動が必然性を持つのは、この運動が起こりつつある何事かをあらわしている、つまりそれらの変更を通り過ぎる存在である全体における変化をあらわしている場合だけである。女は殺されている最中である、彼女はのこのことはいっていったが、もうどんな助けも呼ぶことができない、殺人を免れることができない。この例(ヒッチコックの『フレンジー』)は語りにおける省略の例であるという意見もあるであろう。しかし、省略があろうとなかろうと、それどころか語りがあろうとなかろうと、さしあたりどうでもいいことである。これらの例で重要なのは、どんなものであれショットはいわば二つの極を持つということだ。すなわち、空間におけるもろもろの総体との関係がひとつの極であり、ショットはそれらの総体のなかに、諸要素またはより小さな総体(sous-ensembles)どうしの相対的な変更を導入するものである。全体との関係がもうひとつの極であり、この場合、ショットは持続における全体の絶対的変化をあらわしている。この全体は省略によってあらわされたり(elliptique)、語られたり(narratif)することもあるが、決してそれだけにとどまらない。だが、どんなものであれ、ショットはつねに二つの側面を持つ。すなわち、ショットは総体またはいくつかの総体における相対的な位置の変更を提示し、ある全体(un tout)または全体(le tout)における絶対的な変化をあらわす。ショット一般は、一方で、総体に向かい、その諸部分の変更をあらわす。また一方で、全体に向けられ、その変化を、少なくともそのある変化をあらわす。したがってショットの置かれた状況を抽象的に定義するなら、ショットとは、総体のフレーミングと全体のモンタージュをいわば媒介するものであるということになる。ショットは、ある時はフレーミングの極の方へと向かい、ある時はモンタージュの極の方へと向かうのである。ショットとは、その二重の側面――すなわち、空間のなかで拡張していく総体の諸部分の移動と、持続のなかで変容する全体の変化――のもとに考えられた、運動である。


[ショットの二つの側面:総体とその諸部分へと向かうか、全体とその変化へと向かうか]
 これはショットのたんなる抽象的な規定ではない。というのも、ショットがその具体的な規定を見いだすのは、それが、一方の側面から他方の側面への移行、ふたつの側面の振り分けあるいは配分、ふたつの側面の絶え間ない切り替えを、つねに保証する限りにおいてであるからである。ベルクソンによる三つの水準をもう一度取りあげてみよう。総体とそのもろもろの部分。「開かれたもの」あるいは持続における変化とひとつであるような全体。もろもろの部分あるいは総体のあいだで形づくられるが、同時に、持続を、すなわち全体の変化をもあらわしている運動。この三つである。ショットというのは、こうした[一方の側面から他方の側面への]切り替え、循環をたえず保証しつづける運動のごときものである。ショットは、総体をかたちづくるもろもろの事物に応じて、持続を分割し、再分割すると同時に、もろもろの事物と総体をただひとつの持続のもとに統合する。ショットは持続を、均質でない小さな持続(sous-durées)へとたえず分割し、これらの小さな持続を宇宙の全体に内在する持続のうちに統合する。こうした分割と統合を行うものは意識であるから、ショットも一種の意識であるという意見もあるかもしれない。だが、映画的な意識はただひとつだけであり、それはわれわれ観客でも、主人公でもなく、キャメラである。ときに人間的、ときに非人間的あるいは超人的なキャメラである。たとえば、水の運動、遠くの鳥の運動、船に乗った人物の運動があるとしよう。それらは、唯一の知覚、すなわち人間化された《自然》の穏やかな全体のうちに混じり合っている。ところが突然、その鳥、一羽のありふれたカモメが襲いかかり、人物を傷つける。三つの流れは分割されて互いに外在的なものになる。全体はやがて作り直されるであろうが、そのときは性質を変えているであろう。全体は、鳥たちの全体よりなる単一な意識あるいは知覚となり、無限の待機のなかで人間に敵対するものとなって完全に鳥化した自然を示すことになるのである。鳥たちが襲撃するとき、その襲撃のやり方、場所、犠牲者に応じて、全体は新たに再分割される。人間的なものと非人間的なものとが未決定の関係にはいるとき、両者の休戦のおかげで全体がもう一度再形成されるであろう(ヒッチコックの『鳥』)。分割は二つの全体のあいだでおこなわれ、全体は二つの分割のあいだに形成されるともいえるであろう 。運動によって、運動がそこにおいて形づくられたもろもろの事物はたえず全体のなかへと統合されつづけ、全体はもろもろの事物へとたえず分割されつづける(le Dividuel*1)。ショット、すなわち意識は、その運動の跡をたどるのである。
 運動それ自体が解体されまた再構成されるのである。ある総体において、もろもろの要素のあいだで作用する運動は、それらの要素にしたがって解体する。それらの要素は一定のままであり、運動はそれらの要素に帰せられる。それらの要素は、単純または分割可能なしかじかの運動をつくりだすか、それに従う。だがまた運動は、それがその変化をあらわしている全体に応じて、分割不可能で複雑な大いなる運動へと再構成される。大いなる運動のなかには、それを作家特有の署名とみなすことが出来るものもあり、そうした運動は作品全体の、ひいては作家の諸作品全体(oeuvre)を特徴づけるものであり、またそうした運動は、署名されたしかじかのイマージュの、あるいはそのイマージュのしかじかの細部における相対的な運動と共鳴してもいる。ムルナウ『ファウスト』についての模範的な研究のなかで、エリック・ロメールは、「絵画的空間」において、拡張と収縮の運動が、どのように人物と事物のあいだに配分されているか、そしてそれが、「映画的空間」において、どのように善と悪、神と悪魔といった文字通りの《観念》を表現しているかを、明らかにした*2オーソン・ウェルズはしばしば、二つの運動が構成されるのを描いた。そのうちのひとつは、長細く格子状の一種の檻のなかにおける水平で直線的な逃走であり、もうひとつは、その垂直軸にそって高く見上げたり見下ろしたりされる、円の軌跡である。これらの運動がすでにカフカの文学作品を動かしているものであるとすれば、そこからウェルズとカフカの類似性が導き出される。その類似性はなにも『審判』だけに限られたことではなく、むしろなぜウェルズがカフカと直接対決する必要があったのかを説明してくれるものだ。リードの『第三の男』の深い部分にこうした運動が見出され、形づくられているとすれば、そこから結論されることは、ウェルズはこの映画においてたんなる役者以上の存在であり、この映画をつくりあげるのに密接に関わったか、あるいはリードがウェルズに影響された弟子であったということであろう。黒澤の多くの作品に見られる[運動による]署名は、見かけは日本的特色を思わせるものだ。垂直な太い線がスクリーンの上下に走る一方で、二つの横方向の運動が右から左、左から右にその垂直線を横断する。後で見るように、こうした複雑な運動は、作品の全体、あるいは作品の全体を構想するしかたとかかわっている。フランソワ・ルノーは、ヒッチコックの諸作品を分析して、作品ごとに、包括的な(グローバルな)運動、あるいは、「幾何学的ないしは力学的である、主要なフォルム」とでもいったものを引き出し、それがタイトルバックにおいて純粋状態であらわれる場合があるとしている。「『めまい』のらせん、『サイコ』の破線と白黒模様の構造、『北北西に進路を取れ』の矢印で描かれたデカルト座標などなど・・・」。そしておそらく、これらの作品のいま例を挙げた大いなる運動それじたいが、さらに大いなる運動――ヒッチコックの諸作品(oeuvre)の全体を表現し、また彼の諸作品がどのように進化し、変化したかを表現しているような運動の構成要素となるのである。だが、もう一方の方向も同じぐらい興味深い。すなわち、変化する全体にかかわる大いなる運動が、ある総体の諸部分の相対的な位置、人物や事物への割り当て、諸要素のあいだでの分配にかかわる相対的な運動、局所的フォルムへと解体される方向のことである。ルノーはこれをヒッチコックについて研究している(かくして、『めまい』において、大いなるらせんは、主人公のめまいとなるだけでなく、彼が車でたどる円環、ヒロインのカールされた髪などにもなるのである )。一人ひとりの作家に対して、このような分析がされてしかるべきである。これはあらゆる作家分析に必要なプログラムであって、文体論的分析とでも呼べるものである。フレームにおけるある総体のもろもろの部分のあいだで、あるいは再フレーミングにおける総体から総体への移動のあいだで、形づくられる運動。ある作品または諸作品において全体をあらわす運動。この二つの運動の照応、この二つの運動が響きあい、一方から他方へと移行する、その仕方。などなどの分析である。というのも、同じ運動が、あるときは構成するものとなり、あるときは解体されるものとなるのであって、それは同じ運動の二つの側面なのである。そして、この運動こそが、変化する全体と部分をもつ総体とを具体的に仲介するもの、すなわちショットであり、ショットはその二つの側面に応じて、たえず一方[全体]から他方[総体]への変換を行うのである。


ヒッチコック・コレクションBOX II 』



[運動イマージュ]
 ショットとは、運動イマージュである。運動を変化する全体に結びつけるかぎりにおいて、ショットは持続の動く切片である。あるデモの映像を描写しながら、プドフキンは次のようにいっている。あたかも、ひとはそのデモを見るために屋根に上り、ついで二階の窓のところまで降りてプラカードの文字を読み、それから群衆のなかに飛び込んでいくかのようだ ……。それはたんに「あたかも」でしかない。というのも自然的知覚は、停止点、停泊点、固定点あるいはバラバラな視点、明確な動体のみならず乗り物までも導入するのに対して、映画的知覚はただひとつの運動によって連続的に働くのであり、停止さえも運動の一部であり、運動自身の震えにすぎないのである。ミトリが「サイレント映画でもっとも美しい移動撮影のひとつ」と呼ぶキング・ヴィダー『群衆』の有名なショットを例に取ろう。キャメラは群衆の流れとは逆に、摩天楼に向かって進み、21階まで昇ると、その窓のひとつをフレームに収め、たくさんのデスクのならんだホールを見つけると、そのなかにはいってゆき、前進移動して主人公のいるデスクにたどり着く。あるいはまたムルナウの『最後の人』の有名なショット。自転車に載せられたキャメラは、まずエレベーターに乗って下降し、絶え間なく解体と再構成をおこないながら巨大なホテルの大広間をガラス越しに捉え、「次に、玄関と巨大な回転ドアの扉を通り抜ける、しかもただひとつの完璧な移動撮影で」。キャメラはここで、二つの運動、二つの動体あるいは二つの乗り物、すなわちエレベーターと自転車をともなっている。キャメラは、二つのうちのひとつ[エレベーター]を見せ、それはイマージュの一部をなしているが、もうひとつの方[キャメラ]は見せない(キャメラはまた、場合によっては、イマージュのなかにキャメラそのものの存在を見せることもある)。だがこれは重要なことではない。重要なのは、動くキャメラというのが、キャメラの見せるまたは利用するあらゆる移動手段(飛行機、自動車、船、自転車、歩行、地下鉄……)の一般的等価物であるということだ。この等価性を、ヴェンダースは彼の2本の映画『さすらい』と『都会のアリス』の中心にすえ、そうすることで映画のなかに映画についての極めて具体的な考察を導入することになるだろう。言い換えるならば、映画的運動イマージュの特質とは、もろもろの乗り物や動体からその共通の実体である運動を引き出すこと、またはもろもろの運動からその本質である可動性(mobilité)を引き出すことである。それこそはベルクソンの願っていたことであった。すなわち、自然的知覚が、それが運動の乗り物であるかのようにして、運動を結びつける物体または動体から、たんなる色の付いた「しみ」のごときもの、運動イマージュをひきだすこと。そして、この運動イマージュなるものは「それ自体が極端に速い一連の振動であり」、「実のところ運動の運動なのである *3」。ところで、映写機のなかで起こっていること(イマージュの連なりによる抽象的で均質な運動)だけを考えていたので、ベルクソンが映画には不可能であると思っていたことは、実はなによりも映写機にこそ可能であり、映写機が優れて得意とすることなのである。それこそが運動イマージュであり、すなわち、身体あるいは動体から引き出された純粋な運動である。運動イマージュは抽象[によってえられるもの]ではなく、解放[によってえられるもの]である。ルノワールの映画におけるように、キャメラが人物を離れ、人物に背を向けさえして、独自の運動をつづけ、最後にふたたびその人物を捉える瞬間というのは、つねに映画における偉大な瞬間である [『ランジュ氏の犯罪』のことを指していると思われる]。


[動く切片、時間のパースペクティヴ]
 こうして運動の動く切片を作りながら、ショットは変化する全体の持続を表現するだけでは飽きたらず、イマージュにおいて総体を構成するもろもろの物体、部分、様相(aspect)、大きさ、物体のそれぞれの位置などに絶えず変化をつける。この二つ[変化する全体の持続と、総体の部分の変更]はともに一方があって他方が成り立つものだ。純粋な運動は、総体の諸要素をさまざまな分母で分割することによってそれらに変化をつけ、総体を解体しまた再構成するからこそ、本質的に開かれた全体とも関係をもつのであり、この全体の特性は、たえず「作られること」、変化すること、持続することなのである。純粋な運動というショットの本性を、キュビストや同時主義者の絵画と比較しながら、もっとも深く、もっとも詩的に引き出したのはエプスタンだった。「あらゆる表面は、あたかも昆虫の幾千もの複眼に映し出されるようにして、分割され、分断され、解体され、砕ける。キャンバスがその plan de bout*4であるような描写の幾何学。遠近法に屈服する代わりに、この画家は遠近法にひびを入れ、そのなかに入りこむ。[……]外側の遠近法に代わるものとして、彼は内側の遠近法を用いるのである。すなわち、湿度を測る髪の毛のように、多様で、きらめき、うねり、収縮する遠近法を。この遠近法は右と左では同じでないし、上と下でも同じでない。すなわち、画家が現実について提示する分数は、距離についても、起伏についても、光についても分母が同じでないのだ。」映画は、絵画よりもさらに直接的に、時間における起伏(relief)を与え、時間における遠近法を与える。映画は時間そのものを遠近法あるいは起伏として表現するのである 。だから運動が速度を遅くしたり速くしたりする力を持つように、時間は収縮したり膨張したりする力を本質的にもっているのである。エプスタンはショットの概念にもっとも近づいた人物だ。すなわち、動く切片、つまり時間の遠近法あるいは転調(モデュラション)としてのショットに。映画のイマージュと写真のイマージュの違いはそこから生まれる。写真は一種の「型どり」(moulage)である。この鋳型は事物の内なる力を組織立て、ある瞬間(動かない切片)にそれが平衡状態に達するようにする。一方、モデュラションは平衡状態に達したとき止まるわけでもなく、たえず鋳型を変更し続け、可変的で連続した時間の鋳型をたえず構築し続ける 。運動イマージュとはこのようなものであり、バザンはこの観点から運動イマージュを写真に対置している。「写真はレンズを仲介することで光を本当に刻印する、型どりを行う。[……][だが]映画は逆説的にも、事物の時間の上に自らをかたどり、さらに事物の持続の型を取るのである 。」

*1:訳註:ドゥルーズによる造語。既出だが、例によって、とくに説明はない。分割可能(divisible)でも、分割不可能(indivisible)でもなく、分割されるたびにその性質を変えるもの。

*2:エリック・ロメール『ムルナウの「ファウスト」における空間の構成』

*3:ベルクソン物質と記憶』331(219)頁。『思考と動くもの』1382-1383(164-165)頁。ガンスもしばしば「運動の運度」という同じ表現を使う。

*4:訳註:数学用語らしいが、数学音痴のわたしにはよくわからなかった。このあたりの部分は結構難解で、わかりにくい。