明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ドラマも見とく?〜Lost in「LOST」


秋からはじまったTVドラマも、顔ぶれや内容を見て最初から見る気がしないか、初回だけ見てやめてしまったものがほとんどで、結局、最初からずっと見続けているのは、いまは『のだめカンタービレ』だけだ。別に、これが取り立てて面白いというわけではないのだが、いろんな意味で過不足なくまとまっていて、それなりに楽しめる。上野樹里は、正直いって、これを見るまでほとんど関心がない女優だった。このドラマでは、恋する脳天気娘を漫画チックに、というか野良犬のように演じていて、それでいてこの子こんなにきれいだったっけと思わせる。役にはまるとはこういうことをいうのだろうか。

大ヒットした原作の漫画は、以前、一巻目を読みはじめて、結局それでやめてしまった。大学に通っていたころ、少女漫画ばかり読んでいた時期があったが、わたしも年を取ったということなのか、最近は、少女漫画の絵のタッチを受け付けない体になってしまった。同じ音楽もの漫画では、『ピアノの森』のほうをわたしは買う。


日本のTVドラマが低調であるという理由もあるのかもしれない。近頃よく見るのはアメリカのTV向けドラマである。わたしが見たのは、『24』『LOST』『キングダム・ホスピタル』『プリズン・ブレイク』だ。もっとも、とくになにか目的があってこの4つを選んだわけではない。たまたまテレビで放映がはじまったとか、たまたまソフトが手に入ったとか、そういう安易なきっかけで見始めたというのがほとんどである。一応最新作まで全部見ているのは『24』だけで、『LOST』はまだ物語のなかばまでもたどり着いていないし、『キングダム・ホスピタル』と『プリズン・ブレイク』に至っては、はじめの数話を見ただけである。わたしはアメリカのテレビ・ドラマの大ファンというわけでもなく、数あるシリーズのなかで、このたった四つを見ただけであり、全体を総括するほどの情報は持ち合わせていない。しかし、とくに見たいと思っていたわけでもないわたしの目に触れたぐらいだから、この四つは、ある意味で、いまのアメリカのTVドラマを代表するものではないだろうか、と強引に考えてみる。そこで、思いついたことを少しばかり書き留めておこうと思う。

『24』

いわずと知れた、キーファー・サザーランド主演の大ヒットドラマ。映画俳優としては箸にも棒にもかからないキーファー・サザーランドが、これで代表作をえたことは、まったくの他人事ながら、とりあえずめでたい。いかに無駄を排して、物語を効率よく語るかというのが、ハリウッド映画の経済だったのだが、24時間の出来事を24時間で語るという、ある意味、非常に効率の悪い語り口で有名になったこのドラマが、いまやサスペンスの代名詞となってしまった。

「映画史」のなかで、ゴダールは、「一秒の歴史を書くには、一日が必要となる。一分 の歴史を書くには、一年が必要となる。一日の歴史を書くには……永遠の時間が必要となる」というシャルル・ペギーの言葉を引用している。たった一秒の歴史を語るのに、24時間がかかる。映画は24時間どころか、数十年の物語を、場合によってはたった数週間で撮り上げ、それを2時間の枠に収めてきた。それが古典的な映画の経済だった。では、毎回、24時間をタイムリミットに、国家的・政治的危機を描く『24』が、歴史(Histoire)の真実に迫っているかというと、そんなことはなく、再構成された物語(histoire)が語られるに過ぎないことはいうまでもない。

目的遂行のためにはどんなことでもやる主人公ジャック・バウアーの姿は、9/11以後のアメリカの一国中心主義的傲慢ぶりをそのままあらわし、テロ以後のアメリカのイデオロギーを世界中に振りまいているともいえる。しかし、実際には、アメリカ映画は大昔からこういう主人公をくり返し描いてきたのである。だから、中間選挙民主党が大勝利したからといって、これからのシリーズの内容がそう変わることもないだろう。というよりも、シリーズ2以後は結局一作目の焼き直しに過ぎないこのドラマに視聴者はそろそろ飽きてきてもいいころだと思うのだが、まだまだ人気はつづいているのだろうか。

プリズン・ブレイク』『キングダム・ホスピタル』:

超近代的な病院キングダム・ホスピタル。いまはだれからも忘れられているが、この病院が建てられるはるか昔、そこでは非道なことがおこなわれていた。ながいあいだ影を潜めていた闇の力が目覚めはじめ、静かに病院を支配しはじめる……。『キングダム・ホスピタル』は最初の数話しか見ていないのでまだ先が読めないが、今のところ、他の多くの映画化あるいはテレビ・ドラマ化されたスティーヴン・キング作品同様、これもさして面白くはない。養老孟司がこれのファンだそうだ。ここではどちらかというと患者よりも医者のほうがビョーキであるという点が、『ER 救急救命室』などとはちがうところである。ときおり見られる、デイヴィッド・リンチの映画を思わせるようなはじけた演出が興味をひく。

プリズン・ブレイク』はまだ一話目しか見ていない。死刑が間近に迫った兄を救い出すために、主人公は、強盗を働いてわざとつかまり刑務所に潜り込むことに成功する。頭のいい彼がどうやって兄を脱獄させることに成功するかがこれからの見物である。むかしからある物語なので、今のところあまり魅力は感じない。しかし、面白いとの評判なのでこの先の展開に期待する。

『LOST』:

結局、わたしのお薦めはこれだ。物語は旅客機が海の孤島に墜落する場面からはじまる。事故から生き残った数十名の乗客たちは、そのうち救助隊が来てくれることを信じて待ち続けるが、その希望はしだいに薄れてゆく。海辺での避難生活が長引くにつれ、集団のなかからやがてリーダーらしき人物が現れ、その周りに何人かのキーとなる人物が形づくられはじめる。島には姿の見えないどう猛な生物が存在するらしく、なにやら神秘的な力も働いているようだ。最初は、よくあるサバイバルもののようにはじまるが、次第しだいに物語はうねりはじめてゆく。毎回、現在形で島の生活が描かれる一方で、各登場人物の過去が断片的にフラッシュバックで回想される。彼らの過去はモザイクのようにはめ込まれてゆくだけであり、物語なかば近くにさしかかっても、その全体は見えてこない。やがて、赤の他人だと思われたものたちが、どこかでひそかに関係し合っていたことが明らかになっていく。『24』はシーズンごとに物語は一応完結するかたちになっていたが、『LOST』は、1シーズンで完結するどころか、2シーズン目にはいっていよいよ謎は深まり、ますますSFめいた様相を呈してきた。1シーズン目から2シーズン目にはいるところで一種の転調のようなものが起きるのだが、このあたりの切れ味もなかなかのものだ。

『24』のようにせわしなく事件が起こるわけではなく、物語全体のテンポはあまり速くない。しかし、こちらのほうが物語に深みがあり、ずっとつづけて見ていると『24』よりもはるかに物語に引き込まれてしまう。4つのなかではいちばんはまるドラマである。とくにシーズン2以降、いよいよ話が哲学めいてきた。随所に宗教的な象徴が現れ、『ロビンソン・クルーソー』というよりは『ヨブ記』を思い起こさせる。神に課された試練。しかし神は本当に存在するのか……。西洋人はこういう話が好きなのだ。「世界を救う」ために、パソコンのボタンを押し続けるという挿話が、わたしにはとりわけ興味深い。

発想自体は『漂流教室』のパクリではないかという気がしないでもないが、完結するまでとりあえず結論は避けよう。まだまだ終わらないのだが、これからの展開が楽しみである。願わくば、ナイト・シャマランの『ヴィレッジ』のような単純なオチで終わらないことを祈る。


何度もいうように、たまたまこの4つを見ただけなのだが、いずれもが空間的・時間的な閉塞状況を描いているのはたんなる偶然なのだろうか。単なる脱獄ものかも知れない『プリズン・ブレイク』はまあ別として、24時間というタイムリミットをシーズンごとに毎回嘘のようにくり返し設定して描く『24』、病院という限られた場所を舞台に、さらに脳内世界にまではいりこんで、閉鎖的な世界を描く『キングダム・ホスピタル』、孤島という隔絶した世界を舞台にそこからの脱出を求める人々を描く『LOST』は、いかにも9/11以後的な世界を描いたドラマだといえなくもない。しかし、そういう結論はあまりにも単純すぎるだろう。実際には、『ゲーム』のデヴィッド・フィンチャーに代表される90年代にデビューしたハリウッドの映画作家たちがくり返しこのような閉塞的状況を描いてきたのだから。

あえて単純化していうならば、それら90年代作家たちの作品が描く閉塞状況は、ベルリンの壁崩壊後の世界の状況を示してきたのだといえる。壁が崩れ、外が消え去ったとき、世界全体が内側へと閉じこめられる。それが20世紀末のアメリカ映画に立ちこめていた閉塞感だったということもできよう。2001年9月にテロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突っ込んでいったとき、世界の風景は一瞬にして変わってしまった。そして、そこに新たな「外」が生み出される。しかし、時に「イスラム原理主義」という呼び名で単純化して示されるその「外」は、冷戦時代のソ連のように具体的な壁の向こうに存在しているわけではもはやない。壁などどこにも存在しないいま、その「外」は、至る所にうがたれた穴からこちらをうかがっているともいえる。

いくら単純な物語が好きなハリウッドといえども、かつてインディアンやナチス共産主義を仮想的に見立てたようには、簡単に「敵」を作り出すことができずにいる。アメリカの正義を世界に振りかざしているようにも見える『24』でさえ、さっきまで仲間だと思っていたのが敵だったという、混沌とした状況をそのサスペンスの要としているのだ。『LOST』では、主人公たちは「外」の世界へと脱出しようと努力するのだが、実は彼らのいまいる場所こそが「外」なのかも知れないというよじれた状況になっている。ちょうど、爆破された飛行機のなかから、気圧の変化によって乗客が外に吹き飛ばされるように、「外」は内へと侵入してくるのではなく、逆に内側にいた人たちが「外」へと引き寄せられていったのだ。内と外が逆転し待ったかのような状況。


……あまり考えずに書き始めたので、よくわからない話になってしまった。結論からいうと、なんだかんだいっても、アメリカ人は物語の語り方を知っているということだ。面白かろうが、面白くなかろうが、TVには快楽がかけている。TVドラマも同じことだ。そうはわかっていても、アメリカのテレビ・ドラマはそれなりに楽しませてくれる。なぜ、アメリカ人だけが、こんなにも物語を語ることがうまいのか。これはいまだに謎である。