明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジャン=ダニエル・ポレ『秩序』


オーソン・ウェルズのやった偽放送「火星人襲来」はいまや伝説と化しているが、今朝の衛星ニュースで似たようなことがベルギーでおきたことを伝えていた。ベルギーの公共放送テレビ局が、フランドルが分離独立し、ベルギーが分断されて二つの国になるという嘘のニュースを放送し、それがもとで国中が大騒ぎになっているのだ。ラジオとテレビという違いはあるが、やり方はオーソン・ウェルズのものと同じで(というか、真似したんだろうが)、テレビの放送が突然中断されて臨時ニュースが入るという体裁でその番組ははじまる。"Ce n'est peut-être pas une fiction"(「これはおそらくフィクションではない」)という字幕が最初にはいることははいるのだが、その後に続く部分があまりにも真に迫っていて、かなり多くの人がそれを信じてしまったようである。もちろん、あとで大問題となり、やり過ぎだ、悪趣味だなどと非難囂々となったらしい。

ベルギーは地理的にヨーロッパの十字路にあたり、北部はゲルマン系民族のフラマン人、南部はラテン系民族のワロン人からなっている。フラマン人はフラマン語、ワロン人はワロン語を用いるが、フラマン語オランダ語とほぼ同じであり、ワロン語もフランス語とほぼ同じと考えていいようだ。要するに、民族的・言語的に南北に分裂した状態がずっと続いてきたわけである。今回の放送は、公共放送のあり方の問題で物議をかもしたが、遠く離れた国に住む第三者には、ベルギーという国の置かれた状況を非常にわかりやすく理解させてくれるものではあった。


などという話はどうでもいいのであって、今日はジャン=ダニエル・ポレの『L'Ordre』という作品について書くつもりだったのだ。最近、いろいろ書くことが多くて、なにから書いていいか迷ってしまう。結局、もっとも流行からかけ離れた話題を選んでしまった。『L'Ordre』は 1973 年にポレが撮った 42 分の中編映画だ。わたしがよく使うフランスの映画ガイドでは完全に無視されている。フランス人でさえほとんど知らない作品だ。日本人で見ている人は限られているだろう。見捨てられた人たちを描いた見捨てられた映画である。

この作品は、前に紹介したフランスで発売されているポレの DVD-BOX の一枚目のディスクに収録されている。このディスクにはほかに、『Méditerranée』『Bassae』の計3作が収められている。いずれも、ジャンルでいうならドキュメンタリー作品ということになるのだろう。地中海的な風土が描かれていることでもこの三作は共通している。『Méditerranée』『Bassae』にはほとんど人の姿が出てこない。正確にいうと、出てくるのだが、うち捨てられたような風景のイメージだけが強烈に残り、人間の記憶はほとんど残らないのだ。画面に登場する人物が言葉を発することさえほとんどないのである。たとえば、『地中海』には、手術台のようなものに載せられて眠りつづける白衣の美少女(だれなのかまったくわからないのだが)のイメージがくり返し登場するが、彼女は人間というよりも、名も知れぬギリシアの彫像のごときものとして画面を詩的に彩っているだけであるといっていい。

『L'Ordre』(とりあえず『秩序』と訳すことができる)も、そのようないわば詩的ドキュメンタリーとしてはじまる。クレタ島の近くにあるらしい寂れた島の光景がつぎつぎと映し出されていく。アラン・レネの『夜と霧』を思い出させるような、ゆるやかに前進移動・後退移動をおこなうキャメラによってとらえられたイメージが、くり返しを基調として複雑に重ねられてゆき、魔術的といってもいいような効果がうみだされる。ここまでは『Méditerranée』『Bassae』とそう変わらない印象なのだが、突然、キャメラに真っ正面をむいた人物が語りはじめるのだ。前の2作では、ナレーション以外にだれもしゃべるものがいなかっただけに、だれかが観客に向かって話しかけるというだけでもちょっと驚くところである。しかも、その人物の顔が・・・なんといったらいいのだろうか、こういういい方はあまりしたくないのだが、あまりにも異様すぎて、人間というよりも怪物めいて見え、ショックで一瞬目がくらんでしまう。彼はライ病患者なのだ(あの顔をどうやって表現したらいいのかわからないが、パゾリーニの『奇跡の丘』でキリストがライ病患者を治す奇跡のシーンを覚えている人もいるだろう。まさにあんな顔をしているのだ)。これは本当に撮影してもいい被写体なのだろうかという疑問が見ていてよぎったのは、ヴェンダースの『ニックス・ムーヴィー/水上の稲妻』以来だ。


1904 年に、ギリシア政府は、社会的に「危険」だとしてライ病患者たちを逮捕し、この小さな島に集めて幽閉する。彼らがそこからようやく解放されるのは、その 50 年後、1957 年になってのことだ。隔離されていたライ病患者たちはアテネの近くの施設に移され、そこで社会復帰を待つことになるが、結局そこからでることはなかった。そこももうひとつの幽閉地に過ぎなかったのである。多くの人たちが島を訪れたが、それは彼らの存在を認めるためではなく、珍獣でも眺めるようにして彼らを観察するために過ぎなかった。人間として認めてもらえることしか望んでいなかった彼らにとって、それは裏切りでしかない。20世紀の半ばを過ぎてもまだそんなことがおこなわれたというのは驚きだが、そのことがいまに至るまでほとんど知られていないことに言葉が出なくなる。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』が書かれたのが 1972 年。フーコーの活動ともクロスする映画である(おそらくその影響を多分に受けて撮られたのだろう)。

ミシェル・トゥルニエの『魔王』を信じるなら、「怪物」を意味する "monstre" という言葉の語源は "montrer" (「見せる」)という語であるという。このライ病患者もまさにそんな「怪物」として自分を指し示していたのだ。しかし、ゴルゴンの神話が示すように、怪物とは、まがまがしいものとして視線を投げ返されることのない存在であるともいえる。この映画は、一言でいうなら、そんな彼らに視線を投げ返してやる試みであったといえる。しかし、この作品もまた、ほんのわずかの視線にふれただけで忘れ去られてしまった。視線を投げ返されることのない孤独な存在を描いた、孤独な作品である。日本で上映される可能性はほとんどないと思うが、万が一そういう機会があったなら、是非見てほしい。