早川文庫から出ている翻訳が長らく絶版になっており、ペーパーバックで買おうと思っていた矢先に、文庫が復刊。早速買ったのだが、いざ手にいれてしまうと例によってそのままずっと手をつけずにいたフレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』を、ようやく読み始める。
50年代が近未来として描かれているくらいだから、いまから半世紀以上も前に書かれたSFであるが、いま読んでも古めかしい感じはない。月ロケットの不時着のショックで異世界に迷い込んでしまった男の冒険を描くパラレルワールドものの古典だ。主人公がはいり込んでしまった世界は、一見、彼が元いた世界とほとんど同じようでいて、その実まるで違っている。その世界では、彼がよく知っている人物たちが同じ名前で存在しているのだが、向こうは彼のことがわからない。その世界に存在するH.G.ウェルズの『世界史概観』は、リアルの世界(とは何かがこの小説では問われているのだが)に存在する同名の書物とほとんど同じなのだが、ただ20世紀以後の記述だけがまったく似ても似つかないものになっている。その世界では20世紀の初めに宇宙旅行を可能にする大発見があり、いまでは月人や火星人が地上を歩き回っているのだ(その一方で、金星方面軍司令官の名前がアイゼンハワーになっていたり、重要な登場人物ドペルの伝記をポール・ギャリコが書いていたりするところがおもしろい)。
彼が出版社で編集を担当していた雑誌の表紙の絵は、彼の知っている絵とまったく同じであるのだが、ただ微妙にうまく描かれている。このどこか少しずれている世界のそのずれ具合の描き方が、読んでいてくすぐられるようでなんとも心地よい。そして似ていることが危険であるというスリルとサスペンス。
あれほど大きな相違点、そして、あれほど驚くべき類似点。エレベーターに乗り込んだ彼は、またふと考えた。二つの世界を比べて、相違する点よりも類似する点のほうが、より危険らしいのだ。
宇宙旅行や宇宙人が当たり前となっているこの世界では、いわゆる「SF」が、空想の世界ではなく現実世界を背景として描いたただの「冒険小説」と呼ばれているという、はっとさせるような記述があったりするのも、SFを読む醍醐味である。一瞬にして、自分が信じ切っていた世界の基盤をぐらつかせてしまうユニークな視点をSFは提供してくれるのだ。だからゴダールは、ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』のようなSFは読まれる必要があるといったりするわけである、と形だけ映画の話になったところで、この話題を締めくくろう。