明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

マノエル・ド・オリヴェイラ『ベル・トゥジュール』覚書


フランス映画祭2007」でオリヴェイラの新作『ベル・トゥジュール』を見る。

この映画祭は数年前から行われているものだが、毎年上映作品には、これが本当にフランス映画のいまを代表する作品なのかどうかいまひとつ信用できないものばかりが並べられていて、どうもあまりぱっとしない(どうしてウジェーヌ・グリーンをやらないのだ、としつこくいわせてもらう)。おまけに、例によって、関西では東京でのプログラムが縮小再生産されるかたちになっていて、たとえば今年は、東京では上映されたジャック・ドゥミ作品や、FEMIS 出身の新進作家特集などがまったく上映されなかった。フランス滞在中に『Femme Femme』という作品を見たことのあるポール・ヴェッキアリの『ワンス・モア』なども関西では上映されない。こういうものを関西で見るのは結構難しいのだ。

それにどうして会場が、TOHOシネマズなのだろうか。関西の会場となっていたのは、難波と高槻の TOHOシネマズという映画館だ(東京では、六本木と横浜の TOHOシネマズ)。今回初めて TOHOシネマズ高槻という映画館にいったのだが(というか高槻の駅で降りたのは何年ぶりだろう)、一言でいうなら、ここはごくごくふつうのシネコンである。つまり、まるで個性のない映画館ということだ。シネコンというのはどれもこれも同じような顔をしていてまったく見分けがつかない。昔はどの映画をどの劇場で見たかをはっきり覚えていて、映画館の記憶とそれを見た場所の記憶とは切り離せないものだった。最近それがおぼつかなくなってきたのは、年をとったせいだけではなく、シネコンで映画を見る機会が圧倒的にふえてきているせいでもあるに違いない。実際、ビルのエレベータで上がってTOHOシネマズ高槻の薄暗いホールに降り立ったとき、一瞬、間違ってナビオTOHOプレックスにきてしまったのかと思ったほど、この二つのシネコンは印象がそっくりだった。これでは、映画館が特権的な場所として人の記憶に残っていくわけがない。だから、ジョナサン・ローゼンバウムの『Moving Places -- a Life at the Movies』のような書物は、もは書くことが不可能となりつつあるのだ。

テレビでコマーシャルが流れているような映画しか普段やっていない劇場で、そういう映画が平行して上映されているなかでこういう催しをやられてもお祭り感はまるで出ない。見られればいいじゃないかという人も多いかもしれない。しかし、受付でチケットを買う、そのチケットをもぎってもらうという一連の手続きに、映画という世界にはいってゆくための必要不可欠な入信儀礼の儀式を見いだしているわたしのようなものには、「映画祭」と銘打っているからには、祭りを成り立たせる最低限の準備はしてほしいものだと思う。余計な仕事がふえたというような感じで仕事をされても困るのだ。『ベル・トゥジュール』の上映前のアナウンスで、係の若い男性は「ベル・トゥジュール」というタイトルがうまく読めずに、3度も読み直す始末だった。なれないフランス語が読みにくかったのだろうが、上映される映画のタイトルぐらいは覚えておいてほしかった。



さて、オリヴェイラの新作『ベル・トゥジュール』について。とりあえずメモ風にまとめておく。

「Belle toujours」というタイトルは、ブニュエルの『昼顔』の原題「Belle de jour」を意識したものである。昼間だけ現れる娼婦をカトリーヌ・ドヌーヴが演じたブニュエル作品で、ドヌーヴは「昼の美女」を意味する「Belle de jour」(植物の昼顔も指す言葉)と呼ばれていた。昼だけではなく、いつも(永遠に)美しい女を意味する「Belle toujours」というタイトルをもつオリヴェイラの新作は、『昼顔』と同じ名前のヒロインに、同じく『昼顔』でドヌーヴを導くメフィストのような役を演じていたミシェル・ピコリが 38 年ぶりにパリで再会するという、『昼顔』の後日譚のような物語を描いている。しかし、この作品を『昼顔』の続編であるとか、『昼顔』に付け加えられたポストスクリプトゥムであると簡単にいってしまっていいのだろうか。

ドヴォルザークのコンサートの客席で交わらぬ視線劇が演じられたあと、ドヌーヴならぬビュル・オジェ演じる『昼顔』のヒロインと同名の女性セヴリーヌがタクシーに乗って逃げるように夜のパリの街角に消えてゆくところから映画は始まる。パリを俯瞰する光景をときおりはさみながら、昼の世界と夜の世界が律儀に代わるがわる描かれてゆく。その緩やかな反復のリズムのなかで、ビュル・オジェとミシェル・ピコリがルビッチ作品にも似た滑稽な鬼ごっこを演じる。一方、ピコリが通うバーでは、そこだけが別次元であるかのように、ピコリとバーテンのあいだで『昼顔』の物語が確認され、分析される。ピコリは自分もその物語の主人公であることについては終始曖昧な態度をとり続ける。というよりも、無関心であるといったほうがいいのかもしれない。ここでは誰も彼もが傍観者なのである。

映画が半ばを過ぎたころ、一連のすれ違いのあとで、ピコリとビュル・オジェは骨董店の前でようやく言葉を交わすのだが、高い位置から俯瞰で撮られたロングショットからはふたりの台詞はまったく聞き取れない。最後の場面になって、それが物語の核心にある秘密を打ち明けることを条件に交わされたディナーの約束であったことがわかる。シックな個室でテーブルをはさんで向かい合ったふたりが、いつまでたっても物語の核心(『昼顔』でドヌーヴの夫は彼女の真実を知らされていたのかどうか)に迫っていかないように思える会話をつづけているあいだに、ろうそくの灯は次第に小さくなってゆき、ついには部屋は真っ暗になる。暗闇のなか憤慨したビュル・オジェがテーブルをひっくり返しそうな勢いで出て行ったあと、廊下の明かりに四角く浮かび上がったドアの向こうに、いかにもブニュエル的な記号を背負わされたといった風情で現れる鶏。そうして誰もいなくなった部屋で、若いふたりの給仕が「drôle de type」と何度もつぶやきながらテーブルを片付ける様子をとらえた、あからさまに演劇的な長いフィックス画面で映画は終わるのだが、ただでさえ長い間合いのこの映画のなかでもとりわけ長いこの場面で、この脇役ともいえないほどの人物たちが不意に重要な存在として浮かび上がってくる。この給仕たちは、バーにいつもいる娼婦たちと同じ下層階級であり、彼女らと同じように『昼顔』の物語からは閉め出されている脇役以前の存在だ。ピコリとビュル・オジェの物語自体が『昼顔』への批評なのだが、オリヴェイラはこの給仕と娼婦たちに別次元の批評性を託しているように思える(しかも娼婦を演じているのは『家宝』の女優であるという自己言及性。ちなみに、バーテン役の俳優はオリヴェイラの常連組で、ピコリとも何度か競演している。ピコリが「どこかで会わなかったかな?」と何度も尋ねるのは、そういう含みがあるのかもしれない)。

最初からわかっていることではあるが、結局、『昼顔』の謎は何一つ解決しない。わたしには、そこにさらにピラミッド広場の黄金のジャンヌ・ダルクという謎が一つ余計に付け加わることになった。