明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

黒沢清『叫』


『叫』

ホラー・ノワール役所広司演じる刑事は、不可解な連続殺人の現場に、犯人が自分であることを指し示す証拠物を見つけてとまどう。まるで自分の影を追っているような不気味さ。どんよりとのしかかってくるいわれない罪の意識。役所広司は赤いドレスを着た幽霊に向かって「おまえはだれなんだ」と問いかけるが、それは結局、自分はだれなんだというアイデンティティの問いかけでもある。これはフィルム・ノワールの中でもとりわけダークなある種の作品群の伝統につながるものだ。自らが犯した犯行を隠蔽しつつ、見つかるはずのない犯人を捜査する演技をつづける『歩道が終わるところ』ダナ・アンドリュース。あるいは、だれよりもよく知っている犯行現場にはじめて来たふりをする『飾窓の女』のエドワード・G・ロビンソン。あるいは、イーストウッドが半分監督したともいわれているリチャード・タックルの『タイトロープ』で、自分が関係した娼婦たちが次々と殺されていくのを目にして、否が応でも犯人と自分をダブらせていくイーストウッド演じる刑事。あるいは、出来は遙かに劣る凡作だが、ホラーとハードボイルドの融合という点だけをとれば、ウィリアム・ヒョーツバーグの『堕ちる天使』を映画化した『エンジェル・ハート』も『叫』と通じるものがある。小説でいえば、ジム・トンプスンの犯罪小説や、あるいは・・・。いや、きりがないのでやめよう。


作るでも壊すでもなく、ただ忘れ去られてゆく街。だれにも気づかれずに朽ち果ててゆく死体。同じ手口の連続殺人事件と、不連続な殺人者たち。フェリーの上から見た風景の記憶がよみがえり、数十年の時を経て、死者の視線がその切り返しショットとしてよみがえるとき、物語はクライマックスへと突き進んでゆく。またしても物語の核心に据えられた水浸しの廃墟のような建物に最後に行き着いても、それで物語が終わらないことは端から予想されたことである。家に帰るとそこにはもう一人の死者がまっているというラストは、あるいは溝口健二の『雨月物語』を意識したものだろうか。新聞紙が路上で風に舞うワンカットで世界の終末を感じ取らせるB級センス。しかし、そこにはただ終末の雰囲気があるだけだ。


『LOFT』だけでは確信が持てなかったが、『叫』を見ると、やはり黒沢清はホラーとコメディのあいだでも危ない綱渡りを演じようとしているように思える。ただ、どこまで確信犯でそれをやっているのかはよくわからない。『Cure』や『回路』でオリジナリティあふれるホラーなどいくらでも撮れることを見せたあとで、ミイラやこの世に恨みを残した女幽霊といったテーマをあえて取り上げるのも、黒沢清なりの闘争なのだとは思うが、このあたりは黒沢清を評価する海外の批評家のあいだでさえ理解しにくいところであるようだ。実際、『LOFT』『叫』などの近作を、一種の作家的後退ととらえる海外の批評は少なくなかった(もちろん、その一方で、これらの作品を熱烈に支持する黒沢清ファンも確実に存在する)。

それにしても、8ミリ時代からのファンとしては、最近の黒沢清に対する評価の高さにはちょっとたじろいでしまう。むかしは、『勝手にしやがれ』シリーズなどを見ていると、「高級な」映画ファンから馬鹿にされたものだが、いまでは黒沢清は、ほめないと馬鹿にされるような存在になってしまった。『LOFT』など、恋愛映画としてみれば、惨憺たるできばえだったと思うのだが、だれもそんなことは問題にしていないようだ。