明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『血を吸うカメラ』〜イーストマン・カラーかテクニカラーか。それが問題だ



フランス大統領選はやっぱりサルコジに決まってしまった。前からちょこちょこ書いているように、こいつ嫌いなんだよね。ま、大部分の日本人にはだれがフランスの大統領になろうと関係ないんだろうけど、サルコジって野郎は、パリ郊外の暴動で若者たちをクズ呼ばわりして物議をかもしただけでなく、日本についても、「京都は薄気味悪い」とか、相撲にふれて「髪をポニーテールにした裸の男たちが抱き合っているのを見てなにが面白いのか」なんてことを平気で言ったりするやつなんですよ。もっとも、対立候補のロワイヤル女史も、日本の漫画は面白くないといっていたそうだが(フランスの衛星ニュース France 2 を見ていたら、なぜだかパリに来ていた「日本のコメディアン」光浦靖子が大統領選についてコメントを求められていて、そのときそんなことをいっていたので知った)。ちなみに、フランス人は、日本の漫画ばかりを集めた漫画喫茶がパリにできるほどの、日本の漫画好き。



マイケル・パウエル『血を吸うカメラ』

学生のころに一度見ている映画だが、Criterion Collection の DVD で今回ひさしぶりに見直してみて、びっくりした。こんなにすごい傑作だったっけ。前に見たときはたしかレンタル・ビデオだった。トリミング版だったはずである。クオリティーには定評のある Criterion Collection の、目が覚めるようなカラーのワイド画面であらためて見てみて、初めて見たとき以上の圧倒的な印象を受けた。見ていてぞくぞくしたね。

IMDb には、使われたフィルムは Eastmancolor とある。テクニカラーだと思って見ていたのだが、これでイーストマン・カラーなのか。どうにも気になったので、ネットでちょっと調べてみた。すると、『血を吸うカメラ』で使用されたカラーについては、テクニカラーだとする情報と、イーストマン・カラーだとする情報とが入り乱れていることがわかった。考えてみれば、別にネットで調べなくても、フィルムで確認すればいいだけのことなので、DVD で冒頭のクレジットの部分を見てみた。Eastmancolor とたしかに書いてある。やはりイーストマン・カラーだ。しかし、どうしてテクニカラーだとする情報が多いのだろうか。『血を吸うカメラ』のDVD について書かれたレビューでも、「見事なテクニカラー」などといった文句が書かれてあったりするのが解せない。DVD で確認すればすぐわかることではないか。ひょっとして、イーストマン・コダック社がテクニカラー方式を使った撮影方式を考え出したのか、などと複雑なことを一瞬考えたりしたが、それはありそうもない。結局、これもネットにつきもののいい加減な情報のひとつだったということなのだろう。マイケル・パウエルテクニカラー映画は有名なので、先入観からこの作品もテクニカラーに違いないと思いこんだ人が多かったのかもしれない(しかし、藤崎康のような映画通までもが、「マイケル・パウエル独特の、まろやかで鮮やかなテクニカラーが目に快いイギリス映画」と書いているのを読むと、また不安になってくる)。

そういえば、パウエルを非常にリスペクトしているマーティン・スコセッシのインタビュー『スコセッシ・オン・スコセッシ』にはこんなふうに書かれてある。

[『レイジング・ブル』]公開前年の4月5日、スコセッシは声明文を発表し、「私たちのやっていることはすべてまったく無意味だ」と訴えた。1950年頃からテクニカラーに代わって登場し、現代ではほぼあらゆる映画製作で使われているカラーフィルムが退色に対して何ら防御策を施していない現状では、フィルムメーカーにとって作品が将来にわたって保存される保証がない、とスコセッシは感じたのである。彼は『レイジング・ブル』の劇場公開に立ち合うかたわら、映画祭やシネマテークに顔を出し、フィルムの退色の問題についてスライド等を使った講演を行った。アメリカ国内のみならず諸外国においても映画用生フィルムの主要供給者であるイーストマン・コダックは、そのとき以来、退色傾向の著しく少ない生フィルムをそれまでと同じ価格で提供するようになった──その一方、皮肉なことにパウエル=プレスバーガーものやジョン・フォードもののような、40年代の特定のテクニカラーは、あとの時代のイーストマン・カラーの映画より復元性が優れていることが明らかになった。


『血を吸うカメラ』がイーストマン・カラーで撮られているとすると、それはまだここに書いてあるような保存性の優れた改良が施される前だということになる。それにしては、この DVD に収められたカラー映像は美しい。フィルムで見たことはないのでどれだけ当時の発色に近いのか比較できないが、かなり見事に復元されているといっても良さそうである。



初めて見たときも強烈な印象を残した映画だったが、今回見直してみて、いろいろ忘れていたところも多いことに気づいた。なかでも、主人公の女友達の母親である盲目の女性の存在がわたしにはとりわけ重要に思えた。

カール・ベーム演じる主人公の青年は、映画スタジオでアシスタントの仕事をする一方で、たえずカメラを持ち歩き、密かにプライヴェート・フィルムを撮り続けている。そのフィルムはだれにも見せることができない。そこには、彼に殺された女たちの断末魔の姿が刻み込まれているのである。彼は下宿の2階のアパルトマンの暗闇のなかで、そのフィルムを夜な夜な上映して、ひとりで眺める。それはだれにも知られることのない孤独な快楽だったはずだ。しかし、それに気づいていた人物がひとりいた。それが階下にすむ青年の女友達の盲目の母親なのである。彼女は盲人特有の鋭敏な聴覚で、青年の人目を忍ぶようなかすかな足音を聞き分け、一度もなかに入ったことのない彼の部屋の様子を頭のなかに描き、彼がそこで夜ごとなにをしているかを察知していたのである。

窃視症の快楽殺人者を描いたこの作品は、同じく覗きをあつかったヒッチコックの『裏窓』などと同じく、映画のメタファーとしてたびたび論じられてきた。そこでは、もっぱら「見る」というまがまがしい欲望をめぐって言葉が費やされてきたように思う。しかし、この盲目の婦人の存在は、この映画では視覚だけでなく、聴覚もまた同じぐらい重要であることを気づかせてくれる。

少年時代に、主人公は学者の父親からモルモット扱いされていた。このことが主人公のゆがんだ人格形成の一因になったともいえるのだが、父親はその様子をフィルムに記録していただけでなく、おびえる少年の叫び声を、5歳のときの声、6歳のときの声、といった具合にすべて録音して残してもいたのである。おぞましい殺人フィルムの最後を締めくくる自らの死の場面を自演し、かつそれを撮影しながら主人公は死んでゆく。その直前に彼は、盲目の女性の娘である女友達に、録音された自分の叫び声を聴かせる。それと同時に、この下宿のいたるところに隠しマイクが仕掛けてあり、住人たちの会話がテープに録音されていたことを暴露する。盗み見ること(映画の原題は「Peeping Tom」である)だけでなく、盗み聴くことが問題でもあったのだ。

以上の部分だけでも、この作品においてサウンドがどれほど重要であるかは一目瞭然だ。もっと子細に見てゆけば、パウエルがどれほど繊細な音の使い方をしているかがわかるだろう。

死んだあとも父親の存在は、どこからともなく聞こえてくる心の声としてたえず主人公を縛りつづける。その声は、実は、マイケル・パウエル自身の声である。そして彼に虐げられる少年時代の主人公を演じているのは、パウエルの実の息子なのだ。なんという倒錯! 

これを見て、いまでは珍しくないサイコ・ホラーの走りぐらいにしか思わない人がいるとしたら、それはあまりにも鈍感というものだろう。これだけきわもの的なテーマを扱いながら、崇高ささえ感じさせる作品に仕上げるというのは、ほとんど奇跡といってもいい。



ベルトラン・タヴェルニエやスコセッシの尽力によって、マイケル・パウエルはいまでは巨匠のひとりに数えられる。しかし、日本で公開された彼の作品は全フィルモグラフィーのほんの一部に過ぎない。その全貌が知られるのはまだまだ先のことだろう。わたしがいま特に見たいと思っているのは、初期の犯罪映画「The Phantom Light」(35)や、スパイ映画『スパイ』(39)およびその続編の「Contraband」(40)などの作品である。こういうのにも誰かが目をつけてソフト化してくれるとうれしいのだが。

(『血を吸うカメラ』はむかし日本でもDVDが出ていたが、いまは中古でしか手に入らない。下の写真は、北米版)