明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アーシュラ・K・ル=グウィン『所有せざる人々』


フェミニストSFの古典『闇の左手』と並ぶル・グィンの代表作のひとつ。今頃になってペーパーバックで読む。「ぼくの好きなル・グィンは『辺境の惑星』やこの短編集『風の十二方位』を書いた、少女SF作家のロマンチック・ル・グィンなのだ」、という畑中佳樹の言葉が印象に残っていて、なんとなくいままで読むのを避けてきていた。翻訳はいま手に入らないようだ。『ゲド戦記』のアニメ化にあわせて文庫本が復活するかと思ったが、それはなかった。

英語のレベルはふつうだが、設定を飲み込むまでに少し時間がかかる。物語の舞台となるのは、アナレスとウラスと呼ばれる二重惑星。二重惑星というのは、互いが互いの周りをぐるぐると回っている二つの惑星のことで、姉妹星ともいう。地球と月、あるいは、いまは惑星から格下げされてしまった冥王星カロンのような、惑星と衛星の関係にかなり似ているが、二重惑星の場合、互いの大きさと質量がかなり近いのがふつうである。もっとも、月は衛星としては異常に大きいので、地球と月を二重惑星とみなす学者も一部にはいるようだ。ちなみに、『宇宙戦艦ヤマト』の惑星ガミラスと惑星イスカンダルは、この二重惑星をなしているという設定になっている。

この二つの惑星は非常に対照的で、簡単にいうと、アナレスが共産主義国、ウラスが資本主義国をイメージして描かれている。長い歴史をもつ豊かな星ウラスに対して、アナレスは植民されてわずか2世紀たらずの荒れ果てた貧しい星。オドーと呼ばれる革命家がウラスを追われるようにして旅立ち、「手ぶらで」アナレスにやってきてコロニーを作ったのが、2世紀ほど前のことだった。なにものをも所有しないことで自由たらんとするアナレス人たちは、ことあるごとにウラス人を「所有主義者」といって軽蔑する。しかし、そのアナレスが知らず知らずのあいだにスターリン(なんて名前をアナレス人は当然知らないのだが)の時代のような抑圧された社会、一種の牢獄に変わりつつあることに気づいているものは、ごくわずかしかいない。そのひとりが、この物語の主人公である物理学者のシュヴェックだった。

物語は、彼がこの二つの惑星のみならず、過去と未来を、全宇宙をつなぐ架け橋となるはずの物理学理論をもって、故郷アナレスからウラスへと旅だってゆくところから始まる。ウラスに身を売った裏切りものとして、二度と故郷へは帰らしてもらえないかもしれないことを覚悟してのことだった。ウラスにやってきたシュヴェックは、『ニノチカ』のグレタ・ガルボのようにそこで目にするものすべてに目を見張るが、結局はここも牢獄に過ぎず、自分の居場所はないことを悟って、危険を覚悟でアナレスへと再び「手ぶらで」旅だってゆく。物語はそこで終わっているのだが、この小説は、主人公シュヴェックの生い立ちを物語る過去のパートと、ウラスでの彼の冒険を物語る現在のパートが交互に並べられて同時進行で進んでいく形になっていて、最後の部分で、彼のウラスへの出発と、アナレスへの帰還が見事に一致するという仕掛けになっているのだ。そして、このらせんを描くようにして回帰する構造は、この小説の哲学的テーマとも深く関わり合っている。

ユートピア」(この言葉はその本来の意義、「どこにもない場所」と理解すべきだ。旅立ちと帰還、たえざる往復、終わりのない革命のなかにしかそれはない)をめぐるシリアスなSFであるが、ウラスでの主人公の冒険を描いた部分には、『寒い国から帰ってきたスパイ』のようなスパイ小説のな趣があり、エンターテインメントしてもそれなりに楽しめるだろう。