明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『サラゴサ手稿』〜ブニュエルが愛した映画



このくくりで書くのはひさしぶりだ。今回紹介するのは、ポーランド映画サラゴサ手稿』(『サラゴサの写本』)(65)。まさにカルト中のカルト映画である。『砂時計』で知られるヴォイチェフ・ハス監督が、18世紀ポーランドの作家ヤン・ポトツキの手になる世紀の希書として名高い同名小説を映画化したもので、ハスを国際的に認知させるきっかけとなった出世作だ。日本ではいまに至るまで正式公開されたことはなく、ビデオ・DVD 化もされていない。わたしの知る限りテレビで放映されたこともないはずである。

サラゴサ手稿』はブニュエルが溺愛したことでも知られる作品だ。実は、わたしもこの作品のことを最初に知ったのはブニュエルの自伝によってだったと記憶している。そういう人は多いのではないだろうか。手元の北米版 DVD のパッケージには、「ポトツキによる小説『サラゴサ手稿』も、ハスによる映画も、どちらも大好きな作品だ。この映画をわたしは3度見た。わたしの場合、これはきわめてまれなことなのだ」というブニュエルの言葉が引用されている。

ついでに豆知識を披露しておこう。トリュフォーの『逃げ去る恋』で、主人公ドワネルが、列車で再会した初恋の人コレットに、『恋のサラダ』に続く自分の2作目の小説の構想を語る場面がある。その小説のタイトル「悪童手稿 Le Manuscrit trouvé au Sale Gosse」が、実は「サラゴサ手稿 Le Manuscrit trouvé à Saragosse」のもじりなのである(ちなみに、『サラゴサ手稿』はもともとフランス語で書き上げられた。その後、そのフランス語の原稿の一部が紛失してしまうなど、いろいろあって、『サラゴサ手稿』はテクスト・クリティック的にはいまでもさまざまな点で議論されているようだ。ポトツキが書いたかどうか疑わしいという説もまだくすぶっているようである)。あとで書くように、『サラゴサ手稿』は非常に特異な回想形式で書かれており、トリュフォーはその影響を受けて『逃げ去る恋』の回想形式を組み立てたともいわれている。トリュフォー本人がこのことに言及するのを、わたしは聞いた覚えがないが、文学かぶれであり、またブニュエルの熱狂的なファンでもあった彼のことだ、そういう経緯があったとしても不思議はないだろう(もっとも、『逃げ去る恋』のフラッシュ・バックと『サラゴサ手稿』の回想形式はほとんど似ていないのだが)。

先ほど書いたように、この映画は日本ではまだソフト化されていないが、ポトツキによる原作のほうは、国書刊行会からかつて刊行されていた『世界幻想文学大系』の第19巻に収められていた。しかし、この本はとっくに絶版になっている。そもそもあれは原作の5分の1程度を訳したにすぎない抄訳だった。5,6年前に、同じ国書刊行会から完訳が出るという噂が流れたことがあったが、この話はいつの間にか立ち消えになってしまった。いまは出そうな気配もない。とうに翻訳は終わっていると聞いているのに、なぜ刊行が遅れているのだろうか。映画が公開されるタイミングにあわせて、原作小説の翻訳を出すということはよくある。しかし、この場合はどうもそれはありそうにない。だとすると、タイミングの問題だけではなく、なにかほかに事情があるのだろうか。なんでもいいから早く出してほしいものだ。

翻訳が出るのを待ってられないという人は、日本の Amazon から英訳が簡単に手にはいるので、そちらで読んだ方が早いだろう。同サイトでは、本の冒頭部分を読むこともできるので、買う前にチェックしておくこともできる。英語のレベルはごくふつうだと思うので、そんなに苦労せずに読めるのではないだろうか。


ヴォイチェフ・ハスによる映画『サラゴサ手稿』は、ポトツキの原作をある程度忠実に映画化したものだ。物語は結構複雑なので、要約するだけでもなかなか大変である。ポトツキの『サラゴサ手稿』はしばしば『千夜一夜物語』と比較される。たしかに、いくつもの小さな物語が集積して、ひとつの大きな物語をなしているところは、『デカメロン』や『百物語』などといった枠物語を思い起こさせるが、『サラゴサ手稿』の物語構造は、もっと複雑で入り組んだものだ。

物語は、ナポレンオン戦争が行われているさなかのスペインで、フランスのある将校がスペイン語で書かれた不思議な手稿を発見するところから始まる。このフランス人将校は、手稿のなかに書かれた物語のなかへと導くための案内役を務めるだけの存在で、映画では、冒頭に登場するだけでいつの間にかフェイドアウトし、最後まで再び現れることはない。

ここで物語は、手稿のなかに語られた物語、いわば物語の第2の階層へと移行する。手稿のなかの物語の主人公(小説のなかでは語り手)となるのは、スペイン国のワロン護衛隊アルフォンス・ファン・ボルデンである。彼がスペイン南部のシエラ・モレーナ山脈を越えようとしていたとき、馬丁のモスキトが、次いで召使いのロペスが相次いで姿を消してしまう。土地の人たちがいうには、そのあたりに最近絞首刑になったふたりの山賊、ゾト兄弟の幽霊が出没するらしい。やがて、アルフォンスは人里離れた旅籠につく。ところが、真夜中を告げる最初の鐘が鳴ったとき、不思議な身なりをした「半裸の美しい黒人女」が部屋に入ってきて、あとについてくるよう促す。女について洞窟のような地下の広間に行くと、そこには薄物をまとった若く美しい姉妹が彼を待っていて、食べ物や飲み物をすすめる。やがて、女たちは、実は自分たちはアルフォンスの従妹なのだ明かす。アルフォンスは一晩彼女たちと快楽をともにするのだが、翌日の朝、目がさめてみると、彼は姉妹と一緒にベッドに横たわっているのではなく、絞首台の真下で盗賊ゾト兄弟の死体と並んで寝ているのだった。

この出来事が夢だったのか現実だったのか確信できぬまま、アルフォンスは泊まるところを探し求めて、とある隠者の小屋の前までやってくる。そこで彼は悪魔に憑かれた男パチェコと出会い、彼から不思議な話を聞く。ここで物語は第3の階層へと移行する(『サラゴサ手稿』はこのように物語のなかに別の物語を語る語り手が現れ、さらにその物語のなかに別の語り手による別の物語が現れるという具合に、幾重にも重ねられた入れ子状態になっているのである)。そのパチェコという男の語る物語は、前夜のアルフォンスの体験と不思議なほど似通っていた。パチェコもまた、アルフォンスが泊まったのと同じ旅籠で一夜を過ごしたことがあったが、彼もやはり地下の広間まで降りていって、ふたりの姉妹と一夜を過ごしたあと、絞首台の下で二つの死体にはさまれて目を覚ましたのである。この恐ろしい体験のせいでパチェコは発狂してしまったのだという。隠者は、アルフォンスが出会ったのは悪魔に違いないというが、アルフォンスはまだ悪魔や幽霊の存在を信じようとしない。

隠者のもとを去り、マドリッドに向かおうとしたとき、アルフォンスは突然現れた異端審問官に逮捕されてしまう。後ろ手に縛り上げられたアルフォンスに、審問官はふたりの姉妹のこと、魔女たちのことを問いただす。審問官が、口を割らないアルフォンスをさらに痛めつけようとしていたとき、あの姉妹たちがゾト兄弟を連れて、彼を助け出しにくる。ゾトの二人の兄弟は実は生きていたというのだ……。アルフォンスは姉妹たちにつれられてまたあの地下の広間へといくのだが、そこに突然見知らぬ男が手下のものたちを連れて現れ、アルフォンスを脅して得体の知れない飲み物を飲ませる。目覚めた彼が絞首台の下で、ゾト兄弟の死体のかたわらに横たわっているだろうことは、ここまでくると想像がつく。


幻想文学を研究するさいの必読書といっていい『幻想文学論序説』のなかで、ツヴェタン・トドロフは、それまで曖昧に用いられてきた「幻想文学 littérature fantastique」という言葉を定義するに当たって、カゾットの『悪魔の恋』と並べてこの『サラゴサ手稿』をモデル・ケースとして取り上げて分析している。その結論を一言で要約するなら、読者にたえず「ためらい」を要求するのが、幻想文学の構造的特性であるということになる。

完全な懐疑と同じく、絶対的な信じ込みもまた、われわれを幻想の外へと連れ出す。幻想に生命を与えるのは「ためらい」なのである。


要するに、超現実的な出来事を前にして、それをただの夢として片付けて否定する態度はもちろん、逆に、その超現実的な出来事を完全に信じてしまうことも、ともに幻想を殺してしまうのである。幻想とは、夢と現実の境界領域で、そのどちらの側にも振り子が振りきれることなくとどまっていることによって、はじめて成り立つのだ。


こうして、夢ともうつつともつかない物語が、語り手を変えながら延々続いてゆく。この曖昧さが『欲望の曖昧な対象』の映画作家を魅了したのだろうか。ポトツキの原作では、66日間のあいだにさまざまな語り手が現れてさまざまな物語を次々と語り、物語は遅延と迂回を重ねてゆくのだが、映画のほうでは、3時間の大作とはいえ、さすがに原作の挿話の多くが省略されている。それでも、ハスは原作のもつ雰囲気をかなりうまく映画に移し替えているといえる。正直、この映画の魅力の大部分は原作に負っているといっていいような気もするのだが、映画に翻案されたことでそこに新たな魅力が付け加わったところも少なくない。何度も反復される絞首台の場面などは、映画の編集のリズムによって最大限の効果を引き出されているといっていいだろう。

主人公のアルフォンスを演じるのは、『灰とダイヤモンド』でマチェックを演じたズビグニエフ・チブルスキー。「ポーランドジェームズ・ディーン」(どこが?)と呼ぶ人もいるポーランドのスター俳優だ。『灰とダイヤモンド』のころよりもいくぶん太って見えるせいか、この映画ではどこかしらユーモラスな雰囲気を漂わせている。


最後に、フランシス・フォード・コッポラマーティン・スコセッシもこの映画の熱烈なファンであるということを付け加えておこう。



(最近出た PAL 版)