明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

クリストファー・ノーラン『プレステージ』

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noun
[U] the respect and admiration that sb/sth has because of their social position, or what they have done

Oxford Advanced Learner's Dictionary


監督・ばんざい!』はまだ怖くて見に行けてない。『TAKESHI'S』についづいて『監督・ばんざい!』というのは、『81/2』が立て続けに二本撮られたようななにか禍々しいものを感じてしまう。予告編を見ると、今度は自分の人形まで使って自己と戯れているみたいだし、この自己破壊の衝動はどこへ行き着くのか。


というわけで、単純に楽しませてくれそうな『プレステージ』を見に行く。わたしの大好きな作家クリストファー・プリースト『奇術師』を映画化した作品だ。たまたまこの原作は読んでいなかったので、映画を見る前に読むべきかどうか迷う。結局、読まずに見に行った。その方が驚きを楽しめると思ったのだが、失敗だった。

伏線の張り方がまずいのか、それともわたしの勘がよすぎるのか、話の展開が先へ先へと読めてしまって、驚くところがほとんどない。ラストのトリックも、だいぶ手前に気づいてしまった。原作を読んでないのにこういうのはどうかとも思うが、映画よりも原作のほうが間違いなく面白いと思う。だいたい、「この映画自体がトリックだ」なんて宣伝の仕方をしたら、勘のいい人間はどのあたりにトリックが仕掛けられているか気がついてしまうに違いない。ネタバレになるので詳しいことは書けないが、わたしはポイント、ポイントで仕掛けに気づいてしまった。

優れたマジックとは、タネや仕掛けのないことを観客に確認させる「プレッジ」、パフォーマンスを展開する「ターン」、そして最後に予想を超えた驚きを提供する「プレステージ」の三つの部分から成り立つという、冒頭のマイケル・ケーンの説明はだれもが印象深く覚えているだろう。この映画では、舞台で行われるその優れたマジックそのものが、観客を物語のトリックから目をそらすための目くらまし、「ターン」になっている。マジックの舞台裏を見せておきながら、その裏で物語のトリックが着々と組み立てられているわけだ。しかし、その目くらましは完全に機能しているとはいえない。だからこの映画には、本当の意味で「プレステージ」が欠けているのだともいえる。

[余談だが、「プレステージ」という邦題から、pre-stage「舞台の前」という意味の造語を想像していたのだが、この映画の原題は The Prestige だった。どう考えても、prestige は「プレスティージ」としか読めない。こんなのでいいのか? まあ déjà-vu (「デジャ・ヴュ」)を「デジャブ」と平気で読む国だから、こんなものなのだろう。ちなみに、この prestige という言葉は、ふつう「名声」や「威信」という意味で使われる。ふたりのライバル・マジシャンの地位と名誉をかけた戦いを描く物語にふさわしいタイトルといえよう。]

しかし、監督のクリストファー・ノーランを責めるのは酷なのかもしれない。回想を軸とする複雑な物語をノーランはなかなか手際よくまとめていたと思う。舞台上の鮮やかなマジックも映画で見るほうが迫力がある。しかし、受け手をだますことにかけては、やはり小説は映画の比ではない。結局、映像は嘘をつけないのだ。人物描写ひとつをとっても、情報の出し加減を言葉で自由自在にコントロールできる小説とはちがって、映像はすべてを見せてしまう。無理に隠そうとすれば、余計に不自然になる。それがイメージの強みでもあり弱みでもあるのだ。アイラ・レヴィン『死の接吻』などは、その意味でもっとも映画化不可能な小説だろう(マット・ディロン主演で映画化されたが、もちろん原作とは別物だった)。意外な真犯人であっといわせるぐらいなら、TVのサスペンスドラマが毎日のようにやっているが、『死の接吻』のようなかたちで人をだますのは映画にはたぶん至難の業だろう。気持ちよくだまされたい人は、映画を見る前に原作を読むことをおすすめする。


19世紀ロンドンといえば切り裂きジャックが世間を騒がせていた時代だ。この題材ならもっとホラーの方向にもっていくこともできたかもしれない。科学が怪しげな見世物として成立していた時代(それはいまもそう変わっていないのかもしれないが)、そういう時代を背景に、物語は非常に現実離れした方向へと向かいもするのだが、SFファンタジー的な方に深入りすることをノーランは極力避けていたようだ。それがこの監督のバランス感覚なのだろうが、もっと原作から離れて(いや、ひょっとしたらそれは原作に近づくことになるのかもしれないが、読んでいないのでわからない)、『TAKESHI'S』を少しは見習ってもっとでたらめな作り方をしていたなら、すごい怪作になっていたかもしれない。