明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

室生犀星『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』


[この一冊]では、最近読んだとか、新刊が出て話題になっているとか関係なしに、みんなに読んでもらいたい本を紹介していく。調べてみたら、このカテゴリーは宮川淳の『鏡・空間・イマージュ』を紹介して以来使っていなかった。これからはもう少し積極的に書くことにしよう。


室生犀星『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』


「おじさま、お早うございます。」
「あ、お早う、好いご機嫌らしいね。」
「こんなよいお天気なのに、誰だって機嫌好くしていなきゃ悪いわ、おじさまも、さばさばしたお顔でいらっしゃる。」
「こんなに朝早くやって来て、またおねだりかね。どうも、あやしいな。」
「ううん、いや、ちがう。」
「じゃ何だ。言ってご覧。」
「あのね、このあいだね。あの、」


蜜のあわれ」の書き出しである。「おじさま」とここで呼びかけられているのは、室生犀星を思わせる老作家である。そしてその相手は、一見、親戚の少女か何かのように思えるが、実は金魚なのである。金魚は、ある時は人間の女の姿でハンドバックを片手に買い物に出かけたり、歯医者に通ったりするかと思うと、ある時は赤い三年子の金魚の姿で老作家のおなかの上で眠ったりもする。どう考えてもあり得ないシチュエーションなのだが、全編が会話体だけで書かれているために、言葉のマジックで一瞬も不自然さを感じさせない。

それにしても、この金魚と老作家の関係をどう言い表せばいいのだろう。会話だけで描写される金魚は、老作家の言うことを素直に聞いていたかと思うと、甘えて困らせたり、からかったりするコケティッシュな女である。ふたりの姿はいまでいう援交を思わせるといっていい。そして、ふたりは一緒の寝床で寝たりするのだ。実際、この小説には、これが本当に成瀬巳喜男に原作を提供した作家なのかと思いたくなるようなきわどい描写も少なくないのだが、しかしそこには不思議といやらしさはみじんも感じられない。エロティックな場面になると、金魚は決まって金魚の姿に帰ってしまうからである。

「羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。」
「なにが羞かしいんだ、そんな大きい年をしてさ。」
「だって、・・・・・・」
「なにがだってなんだ、そんなに、すぼめていては、指先につまめないじゃないか。」
「おじさま。」
「何だ赧い顔をして。」
「そこに何があるか、ご存じないのね。」


ここだけ取り出すと、ほとんど官能小説だが、「人間以外の動物は人間にとっては、ちっとも、感じが触れて来ないんだ」という老作家には、金魚がなぜ恥ずかしがっているのかもわからない。老作家にとって金魚は性的な対象外のようでもあり、また理想の女のようでもある。女幽霊(言い忘れたが、後半になると幽霊がふつうに出没しはじめる)に老作家との関係を質された金魚は、「関係ってどんなことですか、あたい、関係ということ初めて聞いたわ」と答えて、うぶなところを見せる。そこはかとなくユーモアの漂う透明なエロティシズム。

金魚は、あたいおじさんの子供がほしいのというが、もちろん人間と老人の間で交尾はできない(こんなめちゃくちゃなシチュエーションを描いているんだから、それぐらいのことできるだろと思うかもしれないが、それをやってしまっちゃおしまいなのだ)。金魚は、「では、あたい、急いで交尾してまいります、いい子をはらむよう一日中祈っていて頂戴」といって、いそいそとどこかの金魚と交尾して「おじさまの子ども」を作りに行く。


この本には、「蜜のあわれ」の完成後に書かれた「炎の金魚」という後記が付されているが、この文章がまたいい。それによると、犀星は、アルベール・ラモリスの映画『赤い風船』に魅せられていた。「蜜のあわれ」は、知らず知らずのうちに書かれた自分なりの『赤い風船』なのだと、犀星は書いている。犀星は、金魚が「水平線に落下しながらも燃え、燃えながら死を遂げる」ところで小説を終えたかったらしいが、さすがにそれはやりすぎだということで、やめたという。

この本に収められている4つの「老人」小説(「陶古の女人」「蜜のあわれ」「火の魚」「われはうたえどもやぶれかぶれ」)はどれも素晴らしいし、どこをとっても見事な文章で書かれている。犀星はながいあいだ悪文家といわれていたらしいが、少なくともこの本に関しては、どこをとりだしてもこれ以上の名文は見つからないように思える。


「われはうたえどもやぶれかぶれ」では、おしっこが思うように出なくなった犀星を思わせる老作家が、もだえ苦しみ、いやいやながらもついには入院して、尿道カテーテルをつっこまれ、最後にやっと放尿にたどり着くまでが描かれる。尿が出ない、ただそのことだけが描かれるといってもいい。それがここまで感動的になるのは、なにゆえなのか。

中条省平『小説家になる!2』のなかで、「ぼくは、かねがね日本近代文学のベストテンを選ぶとしたら、絶対に室生犀星の「蜜のあわれ」を入れたいと思っていました」と書いているが、「われはうたえどもやぶれかぶれ」も「蜜のあわれ」に勝るとも劣らない傑作である。犀星の小説は数えるほどしか読んでいないが、解説の久保忠夫が、「長い間犀星の小説に親しんで来たが、おそらく、この「われはうたえどもやぶれかぶれ」が犀星の小説の最高と思う」と書いているのは、たぶん正しいのだろう。

(ちなみに、『小説家になる!』と『小説家になる2!』は、別に小説家を目指している人でなくとも、小説再入門として読める。というか、実際に小説を書こうとしている人にはあまり評判はよくないらしい。大学での講義を本にしたものなので、もともと一般の読者向きに書かれた本ではないことはいっておくべきだろう。「ハウツー本」だと思って買った人は、いきなり「ラングとパロール」などという説明が出てきてちんぷんかんぷんのまま読むのを諦めてしまったそうだ[Amazon のコメントより]。しかし、「ラングとパロール」ぐらいで、教養がないと読めないといわれてもなぁ。まあ、犀星はソシュールなんて知らなかったろうが、いまは時代が違う。言葉について多少とも真剣に考えたことがあるなら、その程度のことは知っていないとおかしいだろう。まして、小説家というのは言葉のプロのはずではないか。しかし、実際には、そんな専門用語など知らなくても、小説は書けてしまう。なにしろ「ライトノベル」なんて代物まである時代だ。素人だって、なにかの間違いでベストセラー作家になれないとも限らない。ま、そういうものが書きたい人は中条省平ではなく、大塚 英志の『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン』でも読むことをおすすめするが。)