明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

小林信彦『面白い小説を見つけるために』


ベルイマンに続いてミケランジェロ・アントニオーニも亡くなったというニュースを聞いて、なにかの間違いだろうとしばらく信じられずにいたのだが、どうやら本当に死んでしまったらしい。この二人が、ほぼ時を同じくして亡くなったことに、たんなる偶然以上のなにかを感じ取ったのはわたしだけだろうか。


☆ ☆ ☆

小林信彦『面白い小説を見つけるために』


小説は面白くない。いや、そうではなく、どれが面白い小説なのかがわからなくなっているだけだ。むかしはブックガイドのたぐいがそれなりに役に立った。本読みのプロが名前を挙げている作品のなかから、これと思うものを読んでみると、そのなかに大当たりが紛れ込んだりしていたものだ。しかし、最近は、ブックガイド自体が信用できなくなっている。こいつらはほんとに小説の面白さがわかっているのか。選ばれた作品を見てそう思いたくなることが少なくない。

ハリー・ポッター」が大ヒットしている理由は、わたしにいわせれば簡単なことだ。本当に面白い小説を読んだことがないから、あの程度のものを面白いと思ってしまうのである。

わたしでさえ、いまはときどき、なにを読んでいいかわからなくなる。普段ろくに本など読んだことがない人間が、「ハリー・ポッター」あたりに飛びつくのもわからなくはない。そして、こういうものが面白い小説なのだと、若いうちにすり込まれてしまった人間が、たとえば谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の面白さがわからなくなってしまうとしたら、それは非常に残念なことだ。

小林信彦は小説の面白さがなにかがわかっている。バルザックの純文学『ラブイユーズ』とフレデリック・ブラウンのSF『火星人ゴーホーム』と美内すずえの漫画『ガラスの仮面』が、同じように絶賛されているのを見ただけでも、この人は信頼できると思ってしまう(この世でいちばん面白い本は、と訊かれたら、わたしは『ガラスの仮面』と答えるかもしれない)。

純文学だろうが、大衆文学だろうが関係ない。面白いものは面白いのだ。わたしなら、投げやりにそういいきって、わからないやつは放っておくのだが、小林はあくまでも理論的に小説の面白さの核心に迫ろうとしている。だから、解説の風間賢二が、「本書『面白い小説を見つけるために』は、〈小説とはなにか?〉を扱った我が国の評論のたぐいのなかでも画期的な書物である」、と書いているのは正しい。批評家が使うたぐいの難しい言葉は一切使われていないが、凡庸な批評家など比べものにならないほど、小林信彦は小説がわかっている。

たしかに、そこには少し偏りがないわけではない。ここで語られているのは、小説というよりも、物語の悦楽といったほうがいいかもしれないからだ。「小説をつまらなくした張本人は、ジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフマルセル・プルーストたちだと発言して、大方のアカデミックな批評家たちの嘲笑を買ったのは、たしかレスリー・フィードラーだったと思うが、ぼくはかれの意見を高く評価する」と風間賢二は解説に書いているが、わたしはそれもまた極端な意見だと思う(もっとも、これは風間の意見であって、小林はプルーストに対してはもう少し好意的である)。ヴァージニア・ウルフプルーストの迷路のようなエクリチュールのなかで読み迷う悦楽というのも、わたしには否定しがたい。その延長にあるヌーヴォー・ロマンの出現も、なにかの間違いだったのではなく、歴史的必然だったと思うし、ロブ=グリエの小説はいまでも面白いと思う。しかし、「日本文学には、ロマンもないのに、アンチ・ロマンなんて関係ないという荒っぽい説もあったが、それはともかく、モノがつまらないのである。アンチ・ロマンでも、ヌーヴォー・ロマンでもいいけれど、せっかく、「物語」を否定するのだったら、モノが「一級の物語」に匹敵するくらい面白くなければ、読者として物足りない」と小林が書くのもよくわかる。

この本が書かれたのは、1989年。物語を否定する運動だったと要約できないでもないヌーヴォー・ロマンに対する揺り戻しが、このポストモダンの時代に起きるのもまた必然だったのだが、この本は意識的か無意識的か、そうした時代精神を反映していたといっていい。


結局、いくら立派なことが書いてあっても、そこで語られている本が読みたくならなければ、文学評論も新聞の書評も無意味である、というのは言い過ぎだろうか。わたしはこの本を読んで、小説を読みたいという欲望がひさしぶりにむらむらとわき起こってくるのを感じた。それだけで、この本を傑作と呼ぶには十分である。ただ、残念ながら、この本が出たのがもう20年近く前なので、このなかで紹介されている本のなかには、いま現在手に入りにくくなっているものも少なくない。この本を読んでどうしても読みたくなった、白井喬二の大衆文学『富士に立つ影』はいまでは古本でしか手に入らない。

というか、小林信彦の本自体、なかなか手に入りにくくなっている。ミステリ好きのブックガイドとしては、『地獄の読書録』がおすすめだが、これもいまは絶版状態である。『面白い小説を見つけるために』は、幸いまだ文庫で新品を手にいれることができる。本は待ってくれない。買うならお早めに。