明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。





































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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

サミュエル・ベケット『フィルム』


Samuel Beckett, Film


ベケットによる(おそらく唯一の?)映画作品。なにかに追われるようにして足早にアパルトマンの一室に逃げ込む男。演じているのは晩年のバスター・キートンである。『ゴドーを待ちながら』を、最初、キートンチャップリンでやりたいと考えていたベケットにとって、関係浅からぬ人物だ(もっとも、この話は真実ではないらしい。この映画も、実は、最初はキートンを予定していなかった)。キャメラは逃げるキートンを背中から追いかけてゆくのだが、正面に回り込んで顔をとらえようとするたびに、キートンは手で顔をおい隠す。だれもいないアパルトマンのなかにはいったあとも、終始なにかを恐れるかのように、落ち着かない様子で部屋を歩きまわるキートン。どうやら、かれが恐れているのは他者の視線のようだ。キャメラの視線だけでなく、鏡に映った自分の影(それをキャメラが捉えるることはないのだが)、ペットの犬と猫やインコの視線にさえ耐えられず、キートンは鏡にコートをかぶせ、犬と猫をアパルトマンの外に追い出し、インコのかごに覆いを掛ける(犬と猫は、何度外に追い出しても、ドアを閉める直前に、かわりばんこに部屋のなかに戻ってきてしまう。喜劇役者キートンを思い出させる唯一の瞬間だ)。しまいには、水槽の金魚、壁にかけられた肖像画の視線さえも取り除こうとするキートン

この映画は、哲学者バークリーの有名なテーゼ、 "Esse est percipi" (「存在することは知覚されることである」)をベースにしているとベケットはいう(映画は、カッと見開かれた眼のアップではじまり、そして終わる。『血を吸うカメラ』と比較したくなるはじまり方だ)。ドゥルーズの『シネマ』でも、この作品は、知覚と運動をめぐる一節で、異例の長さの分析を与えられている。まあ、哲学に興味がないひとにはどうでもいい話だろうが、おそらくベケットの意図などまったくわかっていないし、興味も持っていないだろうキートンの、「疲労」という言葉を絵に描いたような身体の演技を見るだけでも価値がある作品であるといっていいだろう。ポーカーフェイスを売り物にしていたキートンから、その顔を奪ってしまったという点でも、注目すべき作品である。

バークリーの哲学は一見難しそうだが、こういう世界観は最近のアニメ作品にもしばしば見られるものである。興味がある人は、一般にもわかりやすい入門書として『ソフィーの世界』などを読んでみるとよい。ちなみに、ボルヘスの短編「疲れた男のユートピア」(『砂の本』)には次のような一節がある。

「私の過去では」と私は答えた。「毎日夕方から朝にかけて事件が起こり、それを知らないのは恥である、という迷信がはびこっていました。[・・・] 印刷された文字や映像のほうが、事物よりも現実的だった。公のものだけが真実だった。Esse est percipi. (存在することは模写されることである。)」


フランスで去年 DVD が出たのだが、Amazon ではもう入手不可になっている。わたしの経験では、Amazon.fr は日本やアメリカの Amazon と比べて、在庫がなくなるスピードが圧倒的に早い。あまり売れない商品は、一年ほどで在庫がなくなり、新しく入荷されることもない。めぼしいものがあったら、見つけたときに買っておくのが吉である。わたしはそれで何度涙をのんだことか。


言い忘れたが、これは10数分の短編で、あっという間に終わってしまう。ご注意を。