明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ウディ・アレン「What's Up, Tiger Lily?」



映画監督谷口千吉が、先月29日に肺炎のため亡くなった。『ハイ・シェラ』や『死の谷』を思わせる作品構造を持ち、日本のボガートこと三船敏郎を世に売り出すきっかけとなった『銀嶺の果て』など、少なからぬ佳作を撮りながら、同期の黒澤明の陰に隠れて目立つことはなかったひとである。


ところで、谷口千吉が66年に東宝で撮った『国際秘密警察 鍵の鍵』というアクション活劇がある。この映画は、アメリカでは、What's Up, Tiger Lily? というタイトルで知られている。正確に言うと、二つは同じ作品ではない。What's Up, Tiger Lily?は、ウディ・アレンが『国際秘密警察 鍵の鍵』にでたらめな英語の吹き替えをつけて、まったく別の作品にしてしまったものなのだ。

谷口のオリジナルは、実は見ていない。キネ旬のデータベースで調べてみたが、あらすじが詳しすぎて、何度読んでも話がわからなかった。要は、一千万ドルのはいった金庫をめぐって、とある王国の反政府組織、国際ギャング団、国際秘密警察がいりみだれるという、でたらめな話のようだ。ウディ・アレンは、これに俳優がしゃべってるのとはまったく別の英語の吹き替えをつけて、全然別の映画にしてしまったわけである。もっとも、谷口のオリジナル自体が、いかにも無責任な無国籍映画のようなので、セリフが英語になっていてもたいした違和感はない。むしろ、英語をしゃべっていないほうが不思議なぐらいだ。フランスの映画ガイドには、この映画を香港映画と誤解しているものもあるぐらいである。 もともと国籍などどうでもいい映画なのだ。


What's Up, Tiger Lily?では、オリジナルでだれもが血眼になって探していた金庫の一千万ドルが、「世界最高のエッグサラダのレシピー」という陳腐な内容にすり替えられ、役名も三橋達也がフィル・モスコヴィッツ浜美枝はテリヤキと、実にふざけたものに変えられている。娼婦が出てくる場面で、悪役に「お母さん」といわせたり、「ここはキャグニー風に」「いや、クロード・レインズでお願い」みたいなシネフィルなやりとりをさせたりと、吹き替えはやりたい放題だ。わたしが見たフランス語字幕版では、字幕が悪のりしていて、英語のセリフとは若干ずれたものになっていたので、ますます訳のわからないことになっていた。

ウディ・アレンにとって、これは監督第一作にあたる作品であるが(もっとも、内容が内容だけに、これを監督作として認めていない批評家もいる)、このころには、すでに、シナリオライターやギャグマンとして認められ、かなり有名だったようだ。事実、この映画の音楽を書いているのは、あのラヴィン・スプーンフルなのだ(ラヴィン・スプーンフルは曲をつけているだけでなく、ゲスト出演もしている。天本英世がバーテンをしながらコブラを飼っているクラブで、生ライブを行っているのがラヴィン・スプーンフルなのだ。これはもちろん、オリジナルにはなく、ウディ・アレンが勝手に付け足した場面である。ちなみに、天本英世はこのコブラを溺愛しすぎたために最後は命を落としてしまう)。

オリジナルを見ていないのでなんともいえないが、おそらく編集はほとんどいじっていないのだろう。ところどころシーンが飛んでるような気がしたが、元々そうだったのかもわからない。あくまでセリフの吹き替えだけで、別の作品に仕立て上げた作品と見ていいだろう。ウディ・アレンは脚本家に徹して、監督は別の人に任せたほうがいいんじゃないかと、松浦寿輝がどこかで書いていた。この映画では、良くも悪くも、「脚本家」としてのウディ・アレンの才能が際だっている。もっとも、わたしは次々と繰り出されるギャグにはほとんど笑えなかった。しかし、このお寒いギャグそのものを楽しむというのが、この映画の正しい見方なのかもしれない。


既存の映画のイメージに全然別のサウンドをつけて、作品を成立させてしまうというのは、映画史上まれに見る試みといっていいだろう。これは、マルグリット・デュラスが、『ヴェネチア時代の彼女の名前』で、既存の映画のサウンドにまったく別のイメージをつけたのと逆の試みであるともいえる。ギャグは寒いが、イメージとサウンドのズレから生まれる不思議な魅力がここにはなくもない。たしかに、もしもこの映画が存在しなかったとしても、映画史は微動だにしないだろう。その程度の映画である。しかし、こういう作品も存在するから、映画は面白いのだ。


わたしの勘違いでなければ、日本人映画監督とウディ・アレンというビッグ・ネームの組み合わせにもかかわらず、この作品は日本では未公開である。権利の問題がからんでいるのか、それとも、内容があまりにも国辱的すぎたのか、理由はわからない。いまうまく公開すればたぶんヒットすると思うのだが・・・。いずれにせよ、日本で公開するとなると、もともと日本映画だったものに英語の吹き替えをつけたものに、さらに日本語の字幕をつけて見るという、非常に奇妙な状況が生まれることになるだろう。考えてみるだけでわくわくする。