映画『アイ・アム・レジェンド』の原作は、わたしが大好きな小説の一つで、前にもこのブログで通りすがりにふれたことがあった。そのときは、ウィル・スミス主演のリメイクがつくられていることはまだ知らなかったと思う。そのリメイク作品がそろそろ公開される。たしかこれで3度目のリメイクである。
最初の映画化作品は見ていないのでわからないが、チャールストン・ヘストンが主演した二度目のリメイクは、ロビンソン・クルーソーを思わせる原作の内省的な部分をまったく削って、アクション映画に仕立て上げた、失敗作だった。それでも、わたしはこの映画の冒頭の部分だけは好きだった。真っ赤なスポーツカーに乗って、ロサンゼルスの街を走るチャールストン・ヘストン。しかし、真っ昼間にもかかわらず、都会のビル街にはまったく人気がない。ビルの窓になにかが動く気配を感じると、ヘストンはライフルを取り出し、ためらうことなくぶっ放す。カーラジオから大音響で響き渡るオペラの調べ。
ウィル・スミス版の予告編には、この場面も映っていた。しかし、CGでつくった廃墟の街をスポーツカー(やっぱり赤だったと思う)で走るウィル・スミスを、わざとらしい空撮で撮った場面を見ると、どうもあまり期待できそうにない。ヘストン版よりもさらに大がかりなアクション映画になってしまっているようだ。ともあれ、このリメイクがきっかけで、長らく絶版になっていたリチャード・マシスンの原作が、『アイ・アム・レジェンド』として、新訳で復活したことは喜びたい。
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最近読みはじめた本。相変わらず、いろんなものを平行して読んでいる。
トーマス・ベルンハルト『消去』
「ベケットの再来、20世紀のショーペンハウアー、文学界のグレン・グールド」などと、様々な言葉で絶賛され、蓮實重彦もも一目置くオーストリアの作家。ずいぶん前に買ってあったのだが、あまりにも世評が高いので、びびってしまってなかなか読み出せなかった。
第一部「電報」を50ページほど読み進む。両親と兄の死を知らせる電報を主人公が平静に受け止めるところからはじまる冒頭の部分は、カミュの『異邦人』をつい思い出させる。改行なしで延々と続く怒濤の間接話法を通して、異国ローマから故郷の家族へと寄せる主人公の思いがつづられてゆく。俗物の両親と、小姑のような妹たちへの呪詛。地中海的な知性とでもいったものを感じさせる自由奔放な叔父の思い出。ドイツ的なものとイタリア的なものの対比、などなど。
James Baldwin, The Devil Finds Work
ボールドウィンについては今さら説明する必要はないだろう。アメリカを代表する黒人作家のひとりである。本書は、かれが映画について書いたエッセイである。
ジョーン・クロフォードのすらりとして、ほっそりとした、孤独な後ろ姿が見える。彼女は走る列車の通路を、つぎつぎに足早に通りぬけていく。だれかを探しているのか、あるいはだれかから逃げようとしているのか──。と、ひとりの男が現れて彼女の行く手をはばむ。それは、たしか、クラーク・ゲーブルだったと思う。
わたしは、スクリーンに映しだされる動き、そしてスクリーンそのものの動き、大海のおし寄せる波のうねりにも似た動きに魅了される(とはいうものの、わたしはじつはまだ海を知らなかったのだが──)。しかし、その動きは、水面に、そしてとくに水底に、ゆらぐ光りにも似ていた。
わたしは七歳ぐらいだった。母か、あるいは叔母さんと一緒だった。映画は『暗黒街に踊る』であった。
ジョーン・クロフォードが白人であることを、ボールドウィン少年は、子供ながらにうっすらと理解している。少年は、あるとき、お使いにやられたお店で、ジョーン・クロフォードそっくりの黒人美女に出会い、見とれてしまう・・・
美しい書き出しだ。
『春なき二萬年』のベティ・デイヴィス、『暗黒街の弾痕』のヘンリー・フォンダといったスターたちが、『夜の大捜査線』『招かるざる客』の黒人俳優シドニー・ポワチエが、そしてグリフィスの『國民の創生』が、黒人という視点から語られてゆく。
ジョナサン・ローゼンバウムの本に出てきたので、原書を取り寄せたのだが、じつは、山田宏一の訳で『悪魔が映画をつくった』というタイトルで翻訳が出ていたことをあとになって知る(上の引用は、山田氏訳)。もっとも、翻訳のほうは前世紀に絶版になったままで、今後再版される見込みもほとんどない。
図書館で借りたのだが、山田氏の翻訳本は、写真もふんだんに使ってあり、なによりも脚注がすごく、原書よりもこっちの方がよほどいいんじゃないかと思わせる。さすがである。