吉兆の謝罪会見、わろた。
Neither Mr. Laurel nor Mr. Hardy had any thoughts of doing wrong --
As a matter of fact, they had no thoughts of any kind --
ローレル&ハーディのある短編冒頭の字幕
"Mr. Laurel nor Mr. Hardy" のところはほかの名前に変えてもかまわない。
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東京ではいまムンク展が行われている。
ムンクといえば、『ムンク・愛のレクイエム』で知られるピーター・ワトキンスがパリ・コミューンを描いた映画 La Commune が先頃フランスで公開され、話題を呼んでいた(と、強引に話を持っていく。こういう機会でもないとなかなか紹介しにくい監督なのだ)。
ピーター・ワトキンスは、1935年生まれの(ということは、ゴダールやドゥルーズとほぼ同世代だ)イギリスの映画作家。海外では非常に評価が高いが、日本ではおそらく批評家のあいだでさえ名前をほとんど知られていない(と思うが、これはバカにしすぎていますか)。
原爆の脅威を描いた War Game、カリスマに祭り上げられてゆくロック歌手を描いた『傷だらけのアイドル』(Privilege, 67)、国家による暴力を告発する反軍国主義的映画 Punishment Park などのセンセーショナルな作品で、反体制的な映画作家として名をはせる。しばしば伝記映画の模範とも評される『ムンク・愛のレクイエム』は、有名な画家の生涯を描いていることもあって、ワトキンスとしてはもっとも有名な作品であり、日本で公開された数少ないワトキンス作品の一つであるが、それほど評判を呼んだようには思えない(この作品はビデオ化さえされていないはずである)。(東京ではムンク展に会わせて上映される模様。ムンク展自体は関西には来ないようだが、『ムンク・愛のレクイエム』は来年の1月に神戸で特別上映されるらしい。これは展覧会とは関係なく、たんなる偶然のようだ。実は、この作品は見逃しているので、見に行こうと思っている)
La Commune は、パリコミューンを描いたワトキンスお得意のフェイク・ドキュメンタリー映画だ。普仏戦争の敗北につづいて、政府に反発した労働者階級を中心にした革命政府が樹立され、世界初のプロレタリア政権パリ・コミューンが成立するにいたる経過を簡単に紹介する字幕につづいて、地下の巨大な倉庫のような場所で、撮影スタッフを前にした男女ふたりのテレビレポーターがキャメラにむかって話し始めるところから映画ははじまる。作品全体は、このふたりのレポーターがコミューンの出来事を逐一レポートしていくという体裁で撮られている。むろん、この時代にキャメラも映画も存在したわけがないから、これはだれが見てもわかるように作られた偽のドキュメンタリーである。
「わたしが演じるのはテレビレポーターで、この映画はパリ・コミューンを描くと同時に、過去と現在におけるマスメディアの問題も描いています」と、当時の衣装を身にまとった男性レポーターが、この映画のテーマを簡潔に紹介する。同じく当時の衣装を着た女性レポーターが、自分はコミューンTV(むろん架空のテレビ局)のレポーターですと自己紹介し終わると、キャメラは彼らをあとに残して、すでに撮影が終わってだれも人のいないパリ11区を再現した街路のセットのなかをゆっくりと前進移動しはじめる。キャメラがつぎつぎと映しだしてゆく場所や小道具が映画のなかでどのような役割を演じたかを、レポーターによる画面外からのナレーションが一つひとつ説明してゆく。
こうして、映画は撮影の舞台裏を見せるという仕掛けの露呈にはじまり、ついで、コミューンの盛衰が、段階を追って詳細に語られてゆくのだが、そこでもワトキンスは、ブレヒト風の異化効果で、観客と映像とのあいだに距離を導入することを忘れていない。革命政府に同調する民衆、彼らにおびえ、また憤慨するブルジョアたち、政府軍の兵士たちなどに、TVレポーターがつぎつぎとマイクを向け、その声を拾ってゆく。こうして映画は疑似シネマ・ヴェリテ風に進んでゆくのだが、そこにときおり、反動政府側のテレビ中継が入り、革命政府を揶揄するアナウンサーが、皮肉な口調で出来事を伝える。装われたドキュメンタリー映像の合間合間に、文献をもとにした「客観的」事実が字幕によって挿入される。
こうした手法は、この時代の前衛映画にはそう珍しいものではないだろう(全然違うが、たとえば『煉獄エロイカ』など)。時代劇に、現代のテレビレポーターが登場するというのは、いま見るといかにも古めかしく、滑稽にすら見えるかもしれない。たしかに、安易さを感じさせもする手法なのだが、見ているうちにそんなことは忘れてしまう。この社会的混乱のなかで、そこに渦巻いている様々な声をつぶさに拾い上げるという点において、ワトキンスの撮影スタイルはたしかに成功を収めている。歴史書を読むだけでは、あるいは、ふつうの歴史映画を見ているだけでは聞こえてこなかったに違いない、無数の声がここでは聞こえてくるのである(「オスマンの都市改造なんて俺たち平民には関係がない」などというつぶやき。あるいは、コミューンに参加していたポーランド人などの諸外国人、そして圧倒的な数の女たちの語る声、あるいは叫び)。
おそらく、映画としての評価は賛否両論あるだろうが、パリ・コミューンを描いたドキュメントとしては、たぶんこれ以上のものはないのではないだろうか。
ネットで調べていて、アレックス・コックスがピーター・ワトキンスについて書いた文章を見つけて、なるほどと思った。たしかに、『ウォーカー』は、いま思えば、実に、ピーター・ワトキンス的な映画だったといえる。コックス以外にもワトキンスの影響を受けている映画作家は多いと思われる(たとえば、『アメリカを斬る』のハスケル・ウェクスラーなど)。もう少し評価されていい監督だと思うのだが、日本ではほとんど見る機会がないのだから、たぶん仕方がないのだろう。日本のシネフィルの9割はノンポリだから(言い過ぎですか?)、ワトキンスのような監督はとくに目にとまらない存在なのだろうか。ヨーロッパでは作品が DVD 化されているが、それも手にいれにくかった。そこで朗報である。ワトキンスの5作品("PUNISHMENT PARK", "DVARD MUNCH", "THE GLADIATORS", "THE WAR GAME", "CULLODEN")を収めた DVD-BOX The Cinema of Peter Watkins 5-DISC BOX SETが先頃アメリカで発売されたのだ。この中には La Commune がはいっていないが、こちらはすでに去年 DVD が発売されている。
PS. 今年のチョンジュ映画祭で、ピーター・ワトキンスの回顧上映が行われたそうである。なかなかやるね。そういえば東京映画祭、やってたんだっけ。海外の映画祭より気にならない国内映画祭だね。
ちなみに、『傷だらけのアイドル』(Privilege) でポール・ジョーンズがステージで歌う「Free me」を、パティ・スミスが「Privilege (Set Me Free)」というタイトルでカヴァーしている(『イースター』収録)。