明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ビリー・ワイルダーのあまり見られていない映画につての短い覚書

『地獄の英雄』Ace in the Hole, 51)


落盤事故の取材を利用してもう一度第一線に躍り出ようとする野心家の新聞記者を描いて、ジャーナリズムのセンセーショナリズムを痛烈に批判した作品。

問題を起こして地方の新聞局に勤めることになった辣腕記者(カーク・ダグラス)が、ごくありきたりの落盤事故をセンセーショナルな記事にして一躍有名になる。本当はもっと簡単に助けられるのを知りながら、かれはわざと犠牲者の救出を遅らせ、地元のシェリフを買収してほかの新聞社を閉め出し、記事を独占してしまう。やがて事故現場は、かれの新聞記事で事件を知った野次馬たちと、かれらを当て込んで一儲けしようとするものたちでいっぱいになり、お祭り騒ぎの様相を呈していく。かれの記事は大評判となり、ほかの新聞社からの誘いがどんどんくるようになるが、そんなおり、救出を遅らせたために岩の下敷きになっていた男の様態が悪化し、とうとう死んでしまう・・・

このころまでワイルダーは、『深夜の告白』(44)、『失われた週末』(45)、『サンセット大通り』(50)など、どちらかというとシリアスな作品ばかりを撮っていて、それで大いに評判を呼んでいた。しかし、この作品で観客たちは、物見高い野次馬たちの姿にいわば自己の醜い姿を見せつけられたわけであり、映画は興行的には大失敗に終わった。ワイルダーは以後このような作品は二度と撮らなくなる。こうして軽妙洒脱なコメディ作家ワイルダーのイメージが完成していき、それが三谷幸喜あたりへと受け継がれていくわけである。ルビッチ、ワイルダー三谷幸喜と、広い意味での師弟関係を見ていくと、いかんともしがたい質の劣化が認められるのだが、それはともかく、『地獄の英雄』は、いわばダークなワイルダー作品の頂点に位置づけられる作品ということも出来るだろう。興行的には失敗に終わったのだが、批評的にはむしろ評価はとても高く、これがかれの最高傑作だという人も少なくない(allcinema には、「『市民ケーン』と並んで映画史上に残る記念すべき名作と 言っても過言ではないでしょう」とのコメントが書いてあったりするが、まあ過言でしょうね)。

ただ、すべてが収まるところに収まっていて、こちらの予想を心地よく裏切ってくれる展開もなければ、人を不安にさせる突出した細部もない。その意味では、いつものワイルダーの作品だった。シリアスな作品でも、コミカルな作品でも、結局、ワイルダーワイルダーだ。明と暗を使い分けているだけで、喜劇がそのまま悲劇に反転するような、そういう懐の深さは全然感じられない。実をいうと、この作品はワイルダーのイメージを覆してくれるような作品になっているんではないかと、かなり期待していたので、少しがっかりした。それでも、『悪人と美女』のプロデューサー役などと並んで、かれのキャリアでもっとも強烈で、もっとも不愉快なキャラクターを演じているここでのカーク・ダグラスの演技は、記憶に値する。

『ワン、ツー、スリー/ラブ・ハント作戦』(61)


『地獄の英雄』の約10年後に撮られたこの作品も、『アパートの鍵貸します』と『あなただけ今晩は』のあいだのいわばエアポケットにはいりこんで、ワイルダーのファンの視界からもなかば消えてしまっている感がある。この作品も興行的にはふるわなかったと聞く。批評的にも賛否両論あったようだ。一言で言うなら、この何もかもなぎ倒してゆくブルドーザーのようなシニカルなコメディが少し時代に先んじていたためにちがいない。いまでは、この作品はワイルダーのなかでももっともオリジナルな作品の一つに数えられている。スコセッシがアメリカ映画史を描いた作品のなかでも、どういった文脈のなかだったかは失念してしまったが、この映画は高く評価されていた。

コカコーラ社の西ベルリン支店長(ジェームズ・キャグニー)は、コカコーラで東側の市場を征服しようと企んでいる。そこに本社の重役から、娘がそちらに行くのでよろしく頼むとの連絡が入る。ところが、その重役の娘がお転婆娘で、こともあろうにコミュニストの青年と恋をし、勝手に結婚して妊娠してしまう・・・

見ているときに、「マルクスとコカコーラの子供たち」というゴダールの言葉をつい思い出してしまった。すでに師匠のルビッチが『ニノチカ』で似たような主題を扱っているが、コカコーラに目をつけたというのは、この時代としては斬新だったのではないだろうか。もっとも、この作品に登場するコミュニストの青年の描き方は、パロディだとしてもあまりにも硬直していて笑えない。しかし、これは西側がいだいているコミュニストのイメージをあえて紋切り型に描いているという見方も出来る。そうなると、ワイルダーは東を切った返す刀で、西も一刀両断しているわけで、ワイルダーのソフィスティケートされたシニシズムが見事に発揮されているといっていい。実際、ここでは共産主義も、資本主義も、老いも若きも、徹底してシニカルな視線のもとにさらされているのだ。

物語はおよそばかばかしいものだが、この映画に抗しがたい魅力があるとするなら、それはやはりジェームズ・キャグニーとしてもベストに近いできではないかと思える強烈なパフォーマンスのゆえである。50年代の後半からその終わりまでそれほどぱっとしたもののなかったキャグニーの出演作のなかで、この作品はひときわ輝いているといっていい。一瞬も休むことなくしゃべり続け、動き続けるキャグニーは、人間というよりもなにかに動かされている操り人形のようにさえ見えるのだが、その操り人形が恐ろしいバイタリティで画面のなかを所狭しと動き回る姿は圧倒的だ。


ビリー・ワイルダーという監督は、わたしのお気に入り監督でもなんでもなく、本気で好きと言えるのは『深夜の告白』ぐらいであるといっていい(それも、悪女を演じているバーバラ・スタンウィックの魅力に負うところが絶大である)。とくに、ワイルダーのコメディはわたしには笑えたためしがない。しかし、ワイルダーのコメディ群のなかにおいて、『ワン、ツー、スリー』は、ひときわ異彩を放っている。笑えるかどうかということでは、やはりあまり笑えないのだが、珍しく居心地の悪さを残す作品であるという意味で、わたしにはいちばん気になるワイルダー作品だ。

(allcinema には、「スクリューボールコメディってのは、どれほど大きな風呂敷を広げ、そんでもっていかに上手に畳むかが勝負。本作は冷戦下ベルリンを舞台にこれでもか!って具合に風呂敷広げてます。」というコメントが載っていますが、これをスクリューボール・コメディというのはちとむりがあるでしょう。このサイトのコメントにいちいちつっこんでいると疲れる。)