物欲というのは金のないときにかぎってむらむらと湧いてくるのか、最近ほしいものがいろいろあって困ってしまう。ソフトバンクの春モデルで発売されることになっている Nokia の x02nk は、ソフトバンクになってはじめて心からほしいと思ったモデルで、これはもうすでに買うことに決めてしまった(これでやっと J-Phone というロゴのはいったケータイとおさらばできる)。カメラ付きケータイをいろいろ調べているうちに、急にカメラへの興味が出てきて、本格的なデジカメもほしくなってくる。x02nk には5メガのカメラがついているので、そのへんのデジカメだと買う意味がない。やっぱり買うなら一眼レフがいい、などと、例によって、いきなり本格派を目指す悪い癖がでてくる。ビデオカメラもほしいし、もうすぐでるそうだという怪しげな噂の流れている Mac nano も気になる。しかし、先立つものが・・・。餃子入り殺虫剤というのをつくって売ればひょっとして儲かるかも、などとくだらないことを考えながら、店でもらってきたデジカメやビデオカメラのパンフレットをあれこれと眺めている(旅に出る前にガイドブックを読んであれこれ想像しているときと同じで、買う前にパンフレットを見ていろいろ吟味しているときがいちばん楽しい)。
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ロブ=グリエが死んでしまった。少し前に新作映画のことを書いたばかりだったので、これは不意打ちだった。
ライトノベルだの、携帯小説だのがもてはやされる時代には、ロブ=グリエのような小説家はたぶん不要なのだろう。むかしは翻訳がたくさんでていたものだが、いまではその大半が絶版になっていて、図書館にでも行かなければ読めない。ロブ=グリエの名前を知っているものは、ある程度の年配者か、有名大学の一部の優秀な学生ぐらいだろう(もっとも、10年ぐらい前にドイツを旅しているときにわたしが出会った明治大学の仏文科の学生は、プルーストの名前さえ知らなかった。今も昔も大して変わっていないのかもしれない)。
最近、フランス語を勉強している若い女子学生に『新しい小説のために』を読ませたら、頭がおかしくなるといって生理的に受けつけてもらえなかった。若手の小説家や評論家のなかにも、ヌーヴォー・ロマンの作家たちをバカにし、かれらのせいで小説が面白くなくなったというものがいたりする。しかし、わたしのように、高校の図書館で『嫉妬』を読んでヌーヴォー・ロマンを知り、それから、ラテン・アメリカの文学、ロシア・フォルマリズム、ロラン・バルト、ブランショなどをつぎつぎと読みあさり、小説を通じて言語の神秘にわけ入った経験があるものには、ヌーヴォー・ロマンの洗礼を受けた人と、受けていない人では、決定的な違いがあるように思えてならない。
(余談だが、わたしの通っていたぼろっちい高校の、ちっぽけな図書室には、だれが選んだのか知らないけれど、渋い本が意外とたくさんそろっていた。『嫉妬』がはいっている新潮の現代文学全集はたしか全巻そろっていたはずだし、マルグリット・デュラスの『木立の日々』(もちろん『愛人』がヒットするはるか前の話)や、モーリス・ブランショの『文学空間』、ムージルの『特性のない男』までおいていた。そういえば、『レベッカ』『鳥』などのヒッチコック作品で知られるダフネ・デュ・モーリエの全集というのもあったね。バルザックでも、トルストイでもなく、デュ・モーリエというのは、いったい、どういう基準で選んでいたのだろう。ともかく、わたしの人生を狂わせた一因は、あの図書室にもあるだろう。)
ロブ=グリエの作品においては、風景は絵はがきのように薄っぺらで、人物はことごとく内面を欠き、出てくる女はみな男の欲望が作り上げる娼婦のイメージにおさまっている。同じ手つきが対象をつぎつぎと描写すると同時に消去してゆき、あとに残るのはステレオタイプの廃墟、あるいは紋切り型の迷路だ。ロブ=グリエが、探偵小説やポルノグラフィーから借りた陳腐なイメージを作品のなかで使うのは、そうした硬直したイメージと真剣に戯れることで、文学という制度に揺さぶりをかけようという意図からなのだが、なにもむつかしく考える必要はない。ロブ=グリエとは楽しくつきあえばいいのだ。
ロブ=グリエの作品には荒唐無稽なおもしろさがある。その荒唐無稽さは小説よりもむしろ映画のほうにより直接的にあらわれるようだ。フェルナンデルやブールヴィルといった喜劇役者の存在にもかかわらず偉大な喜劇映画を欠くフランス映画のなかで、ロブ=グリエの映画が見せる秘かな笑いはなかなかに貴重だとわたしは思っている。『ヨーロッパ横断急行』あたりがロブ=グリエのコミック映画の代表作となるだろうか。そのあたりも含めた映画作品の DVD 化が、ロブ=グリエの死後に加速する可能性はあるかもしれない。しかし、いま日本でロブ=グリエの映画がはたしてどれだけの人に受け入れられるだろう。『エデンその後』のモンドリアンを立体化したような抽象的な空間で繰り広げられる死とエロスの遊戯は、「おしゃれ」ということで若い人に案外受けるかもしれない。売り方しだいだ、などと興行師になったつもりで考えてみたりする。
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やっぱりロブ=グリエなんて面倒くさいというひとは、ホフマンスタールの『チャンドス教の手紙』あたりを読んでみたらどうだろう。しばらく手に入りにくくなっていたが、最近、岩波で重版されたようだ。ロブ=グリエ登場の舞台はこの頃からできていたのだ。あんまり関係ないけれど、田中小実昌の『ポロポロ』も、ロブ=グリエのような難解な小説では全然ないが、「物語」とか「言語」について思考するきっかけにはなる。