明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

Giallo ってなんじゃろ?〜マリオ・バーヴァとアントニオ・マルゲリーティをめぐって


イタリアのホラー映画について書かれた文章などで、"Giallo" とか "Giallo movie" といった言葉をよく眼にすることがある。ホラー映画のサブジャンルらしきことはだいたい文脈から予想がついていたが、ちゃんと調べてみたことがなかった。"Giallo" とはいったいなんなのだろう。お手軽だが、まず Wikipedia をあたってみた。

Giallo (pronounced IPA: ['ʤallo]) is an Italian 20th century genre of literature and film. It is closely related to the French fantastique genre, crime fiction, horror fiction and eroticism. The term is also used to mean an example of the genre, in which case it can take the Italian plural gialli. The word giallo is Italian for "yellow" (see Wiktionary: giallo) and stems from the genre's origin in paperback novels with yellow covers.


これによると、"giallo" はもともとは小説に対して使われていた言葉だったらしい。20世紀初頭にイタリアで流行した扇情的な犯罪ミステリー小説(いわばイタリア版パルプ・フィクション)の多くが黄色表紙のペーパーバックで出ていたことから、黄色を意味する "giallo" というイタリア語が、これらの小説の総称として使われるようになったのが、そもそものはじまりである。"giallo" (「ジャーロ」または「ジャッロ」などと表記される)という言葉は、60年代になってジャロ小説が映画化されたときにも用いられるようになり、やがて、小説とは無関係に映画独自の発展を遂げてゆき、ユニークな一ジャンルを形成するに至った、ということらしい。

では、ジャッロ映画とはどのような映画のことをさして呼ばれるのだろうか。

"Giallo" films are characterized by extended murder sequences featuring excessive bloodletting, stylish camerawork and unusual musical arrangements. The literary whodunit element is retained, but combined with modern slasher horror, while being filtered through Italy's longstanding tradition of opera and staged grand guignol drama. They also generally include liberal amounts of nudity and sex.


なんだ、これだったら結局、イタリアのモダン・ホラー映画すべてにあてはまるじゃないか。このあともいろいろごちゃごちゃ書いてあるが、こういう説明というのは、長くなれば長くなるほどわからなくなるものだ。それに、こういうジャンルあるいはサブ・ジャンルの定義には、いわゆる「解釈学的循環」という問題がいつもつきまとう。つまりは、"giallo" というジャンル(全体)を定義するためには、作品からその諸特徴(部分)を選び出してこなければいけないわけだが、その諸特徴を選び出すためには、"giallo" がなにかをあらかじめ理解していなければならないという、この蛇が自分のしっぽをくわえてぐるぐる回っているような、全体と部分の悪循環のことである。

話がややこしくなりそうなので、一刀両断に定義してしまおう。"Films known abroad as "gialli" are called thrilling or simply "thriller" in Italy" とあることからもわかるように、ジャッロはサスペンス・スリラーに非常に近いホラー映画ととりあえず考えることができるようだ。実際、その程度のアバウトな使い方をされてきたようで、代表的な監督としては、ダリオ・アルジェント、マリオ・バーヴァ、ルチオ・フルチ、アルド・ラド、セルジオ・マルティーノ、ウンベルト・レンツィ、プーピ・アヴァティなどの名前が挙げられている(これはイタリアのモダン・ホラーの代表的監督とほぼかさなる)。とりわけバーヴァとアルジェントのふたりがジャッロの二大巨頭と考えられているようだ。

バーヴァのジャッロ作品としては、『知りすぎた少女』『モデル連続殺人!』『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』『ファイブ・バンボーレ』があげられている。バーヴァの作品のなかでは、怪奇色よりもサスペンス色のほうが強い作品ばかりである。

『知りすぎた少女』は、ジャッロを映画の一ジャンルとして決定づけたとされる作品だ。The Girl Who Knew Too Much というタイトルからもわかるように、ヒッチコックが明らかに意識されている。ミステリー・マニアの女性が、旅先のローマで巻き込まれるミステリアスな事件が描かれるが、怪奇と幻想とはほとんど無縁の作品だ。冒頭、飛行機がローマに着いたところで、ヒロインがマフィアのものらしき麻薬入りの煙草を知らずに受け取ってしまうシーンがある。このエピソードが、そのあとの展開と一切関わってこないので、いったいなんだったんだろうと思っていると、最後の最後の最後でオチに使われるという、なかなかしゃれたことをやっていた。

ローマに着いた後、ヒロインはある殺人事件を目撃するのだが、被害者の死体が忽然と消えてしまったため、だれからも事件のことを信じてもらえない。自分でもあれは幻だったのかと半信半疑になりながらも、ひとりで調査をつづけるうちに、彼女自身の身にも危険が迫ってくる・・・。この手のお話はいまとなっては語り尽くされた感があり、それほど目新しくないだろう。いまどき物語に意外な結末を求める人には、不満が残るかもしれない。たとえば、この作品の DVD を紹介した Amazon のページに載っている唯一のコメントは、以下のような否定的内容になっている。

僕がマリオ・バーヴァの作品の中で唯一嫌いな映画。
特にこれと言って見せ場もなく、淡々と話が進んでいきます。
ラストも何のひねりもなく普通のオチでした。
イタリアでは公開当時、ベスト・オブ・マリオ・バーヴァと
評されたそうですが、この作品の出来からしてそうは、
思えませんねー(笑)


まず、自分の文章に(笑)と書くやつを見るとわたしはいらいらするのだが、いまそれはどうでもいい。「そうは」と「思え」のあいだに句点が入っている間の悪さも気になるが、それもここでは問わないことにしよう。少なくとも、この映画が嫌いなことだけは伝わった。しかし、知り合いや、気になる人ならともかく、見ず知らずの他人に「僕がマリオ・バーヴァの作品の中で唯一嫌いな映画」といわれたところで、ほとんど無意味な情報でしかない(そもそも、この人はバーヴァが撮った『ヘラクレス』などのコスチューム・プレイや、『黄金の眼』のような 007ふう、というかルパン三世ふうテロリスト映画なども見た上でコメントしているのか。4,5本しか見ていないのに、「マリオ・バーヴァの作品の中で唯一嫌い」といわれても、あ、そ、と思うだけだ)。



こんなコメントどうでもいいじゃないかと思う人も多いだろう。それが健全な反応だとは思うけれど、わたしはこういう無責任な書き込みを見ていると腹が立って仕方がない。この人は、この映画に☆一つの評価をつけているが、それはこの映画の出来を評価したというよりは、たんに自分が嫌いだということをアピールしたかっただけである。わたしにいわせれば、この映画はスリラーとして最高の出来であると思う。スリラーというジャンルだけに限っても、これより出来の悪い映画なら、少なく見積もっても千本はくだらないだろう。この映画が☆一つなら、そんな下々の映画には☆をどうつければいいのか。この人は、この世に存在するありとあらゆるスリラー映画のなかで、この『知りすぎた少女』が最低ランクに位置する映画だと本気で考えているんだろうか(わたしも、このブログで、一時だけ、見た映画に☆をつけていたことがあったが、いくつ☆をつけるかで悩んでいるうちに頭が変になりそうになったので、早々にやめてしまった)。

Amazon だけでなく、ほかの映画関係の掲示板やブログなどに書かれるこういうコメントの言葉というのは、自分の好き嫌いしか語っていないことが少なくない。好き嫌いを語るのもいいけれど、他人を説得できなければ意味がないということが、こういうコメントをつける人たちにはどうもわかっていないようだ。しかも、説得力がないからといって、こういう無責任なコメントは簡単に無視できるものでもない。あんまり映画の知識がない人たちは、こういうコメントや星の数だけを頼りに DVD を買ったり買わなかったりするのだ。買うか買わないかの判断材料になるということは、その映画が見られるか見られないかの決め手になるということだ(いま日本で、『知りすぎた少女』を見ようと思ったら、 DVD を買う以外にほとんどその機会はないのだから)。本当にマリオ・バーヴァのファンだったら、たとえ大嫌いな作品でも、「バーヴァの作品としては出来はよくないが、この映画によってジャッロ映画が確立されたとされる、イタリアのホラー映画史上重要な作品なので、見て損はない」ぐらいのことは書いてほしいところだ。自分を輝かせるのではなく、映画を輝かせる。これが基本でしょ。

もっとも、好きか嫌いかと問われれば、『知りすぎた少女』はわたしがもっとも好きなバーヴァの作品の一つです(笑)。

それにしても、これだけ次から次へといろんなことが起こる映画を見て、「淡々と話が進んでいきます」と平気で書ける根性はなかなかすごい。これ以上いったいどんな事件が起きればよかったのか。『モデル連続殺人!』などとくらべて殺人の数が少なすぎたのか、血の量が足りなかったのか。過剰な情報のなかにどっぷりとつかっている現代の観客にとって、物語はここまで飽和状態に達してしまっているのだ。つまりは、どんな物語もすでに語られてしまっているように思え、それゆえ、いかに波瀾万丈の物語であろうと、すべてが淡々と進んでいくように見えるというわけだ。

たしかに、『知りすぎた少女』は、マリオ・バーヴァとしてはふつうのスリラーに最も近い作品だといっていいだろう。その意味では、バーヴァのファンでさえ、というかバーヴァのファンだからこそ、少し物足りなく感じるのもわからなくはない。しかしそれだけで出来が悪いといわれたら、困ってしまう。

わたしが『知りすぎた少女』を好きなのは、なによりもそのモノクロ画面が魅力的だからだ。ラオール・ウォルシュ『ペルシャ大王』なども撮影しているカメラマン出身の監督バーヴァは、鮮血のほとばしるカラー作品の印象のほうが強いかもしれない。しかし、わたしが好きなバーヴァは白黒で撮られた『血ぬられた墓標』やこの『知りすぎた少女』のバーヴァなのだ。撮影監督としてもクレジットされている『知りすぎた少女』でバーヴァは、巧みな照明によるコントラストの強いモノクロ画面で夜のシーンを撮り上げ、サスペンスフルな雰囲気を見事に作り出している。とくに印象的なのは、ひとりで夜を過ごさなければならなくなったヒロインのレティシア・ロマンが、不審者が家のなかにはいってきたらすぐにわかるように、鈴をつけた糸を家じゅうに蜘蛛の巣のように張りめぐらす場面だ。闇のなかに白い糸がぼんやりと浮かび上がる様子は、怪しくも美しかった。一度見たら忘れがたい場面だと思うのだが、これもこれといった「見せ場」ではないのだろうか。

ひょっとしたら、日本で発売されている『知りすぎた少女』の DVD はわたしが見たオリジナル・ヴァージョンとはちがうのかもしれない。この作品には、イタリアで公開されたオリジナル以外に、アメリカで公開されたときに一般受けするように若干編集を変え、音楽も差し替えたヴァージョン(The Evil Eyes)が存在するのだ。こういうことはよくあり、バーヴァの作品ではたとえば、Rabid Dogs にもイタリア版とアメリカ版(Kidnapped のタイトルで公開された)のふたつのヴァージョンがある。このふたつのヴァージョンを同時収録した DVD も発売されており、わたしはそれで見比べてみたことがあるのだが、まったく印象がちがうので驚いてしまった。話はまったく同じなのだが、Kidnapped のほうは Rabid Dogs にくらべて編集がストレートでわかりやすく、わたしにはその分つまらなく思えた。この映画は、強盗をはたらいたあとで、無関係の人質を取って逃走するならず者たちを描いたロードムーヴィーふう犯罪映画なのだが、こういう映画では、警察側の動きを描くかどうかで、作品の印象が全然違ってくる。Rabid Dogs では犯罪者と人質だけに焦点を絞り、追う側の視点は一切描き込んでいない。一方、Kidnapped では、強盗に入られた会社の職員が警察に電話をかけるところや、警察無線のやりとりなどがいちいち描かれていて、最初に Rabid Dogs のほうを見ていると、よけいに間延びして見えてしまう。しかし、それ以上にちがうのは、それぞれにつけられている音楽だ。音楽によって映像の印象が変わることは頭ではわかっていても、こうやってふたつをならべられると、その効果のすごさに改めて驚く。この2作にはまったく別の音楽がつけられているのだが、Rabid Dogs の音楽のほうがはっきりいって断然いい。映画の出来も Rabid Dogs のほうがいいと思うので、これから見るという人は、Rabid Dogs のほうから先に見ることをおすすめする。

だから、日本版『知りすぎた少女』の DVD が、アメリカ公開版をもとにしているとしたら、わたしが見たオリジナル版とはずいぶん印象がちがっている可能性があるということだ(もちろん、これは最後にフォローするためにいってみただけで、日本で発売されている『知りすぎた少女』の DVD はかなりの確率でオリジナル版に基づいている)。

(この BOX には『知りすぎた少女』のオリジナル版のほか、『血ぬられた墓標』『バイキングの復讐』『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』『呪いの館』の四作が収録されている。『知りすぎた少女』のアメリカ版そのものは見ることはできないが、音声解説でアメリカ版との異同についての説明を聞くことができ、また、特典映像としてはいっているアメリカ版の予告編で、オリジナル版にはないシーンの一部を見ることはできる。)


☆ ☆ ☆


とくに大ファンでもないのにマリオ・バーヴァの話で長くなりすぎたので、アントニオ・マルゲリーティのことは簡単に書き流すだけにしておく。


マルゲリーティもイタリアのモダン・ホラー映画作家(といいきることがためらわれるほどその作風は幅広いのだが)の例に漏れず、ジャッロ映画を数多く撮っているのだが、不思議なことに、先ほど引用した Wikipedia の "Giallo" の項目には、アントニオ・マルゲリーティの名前は一度も出てこない。まだまだマイナーな存在だということなのか。

最近見た、ジェーン・バーキン主演の『ヴェルヴェットの森』という映画も、まさにジャッロの名にふさわしい映画だった。曰くありげな古城、壁の隠し扉からつづく地下の抜け道、棺から消え去る死体など、「見せ場」も多く、最後に意外な真犯人も登場するのだが、面白いかどうかというと、これが微妙である。いかにも職人らしいそつのない演出で最後まで楽しめる映画にはなってはいるのだが、いつものマルゲリーティ同様、そこそこの出来だといわざるを得ない。しかし、さっきのコメントの筆者なら、『知りすぎた少女』よりもこれのほうが出来がいいと主張するのだろうか。訪れた古城でつぎつぎと奇怪な殺人事件を目撃するヒロインにジェーン・バーキンを起用し、態度だけはでかいがちっとも活躍しない刑事役としてセルジュ・ゲンズブールを共演させるというあざといキャスティングで話題性には事欠かないので、過度の期待さえしなければ、話の種に見ておいて損はない作品ではある。ちなみに、「ヴェルヴェットの森」という DVD タイトルはジェーン・バーキン・ファンの女性層をねらったものに違いなく、内容とはまったく関係がない(わたしなら「殺しを呼ぶ猫」とでも名付けたい)。


マルゲリーティでは、Long Hair of Deathという映画も最近見た。これは、魔女狩りがおこなわれていた中世を時代背景に、ハムレットふうの陰謀劇をホラーとして描いた作品で、『ヴェルヴェットの森』にくらべれば出来はずっといい。とはいえ、バーヴァほどの個性は、カメラワークにも照明にも演出にも感じられないのは、いつもの通りだ。この作品は、バーヴァの『血ぬられた墓標』を意識して撮られたといわれていて、主演も同じバーバラ・スチールを使っている。ホラー映画のなかだけで輝いたバーバラ・スチールのジャンル限定の異様な美しさは、ここでも作品を大いに救っているといっていい。簡単にいうと、魔女として火あぶりにされた女が、娘を通じて復讐を遂げるという物語なのだが、復讐譚として見るには多少焦点がぼやけていて、今ひとつ集中できなかった(字幕なしで見たせいもあるだろう)。しかし、悪霊を追い払うために毎年おこなわれる村の祭りで、悪魔に見立てた人形のなかに復讐の相手が閉じこめられているとも知らずに、火が放たれるというラストは、冒頭の火あぶりのシーンと見事に呼応していて素晴らしい終わり方だった。


(ちなみに、『SOS地球を救え!』『地球最終戦争』もアントニオ・マルゲリーティ作品と判明しました。)


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書いてる途中でやる気がなくなったので、なんだかまとまりのないものになってしまった。最後に一言。


Google で、「イタリア映画+ホラー+ジャロ orジャッロ」で検索するとかなりの数のヒットがあるので(そのなかには日本広告機構ジャロもだいぶはいっているが、こういう場合どうやって検索対象から取り除けばいいのだろう。「に訴え」と「に電話」でマイナス検索すればかなり絞り込むことはできるが、これ以上はむつかしかった)、日本のホラーファンにもこの言葉はそれなりに認知されているようだ。知らなかったのはたんにわたしが無知だったかららしい。

ジャッロという言葉をはじめて知ったときは、なにか未知の水脈に出会ったのではないか、知られざる作家を見つけられるのではないかと期待したのだが、掘り進めていくと案外底が浅かった。結局、Widipedia をあたっただけですましてしまったが、これ以上調べてもたいしたことは出てきそうにない。すくなくとも、ジャッロは、「スクリューボール・コメディ」や「フィルム・ノワール」のように、作家の想像力を刺激して、豊かな作品群を生み出すまでに成熟したジャンルというわけではないようだ。しかし、イタリアのホラーにはまだまだわたしが知らない部分が多いので、しばらく探求はつづけようと思っている。