明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

短編映画の秘かな愉しみ〜アニェス・ヴァルダの初期短編について

だれもが知っているが、だれもいわない。ヌーヴェル・ヴァーグの最初の映画は『ラ・ポワント・クールト』であり、つくられたのは1955年、『二十四時間の情事』と『大人は判ってくれない』の3年前だということを。

ジャン=ミシェル・フロドン


フランスの映画館では、本編がはじまる前に、関係のない短編映画が予告なしに上映されることがたまにある。フランスにきて間もないころは、まだ慣れていなかったので、上映ホールを間違えてしまったと思って焦ったものだ。しばらくするうちに慣れていったが、それでも、劇場前のポスターなどでこれこれの短編を併映しますという案内があるわけではないので、いきなり関係ない映画がはじまるとやはり驚く。ジョルジュ・フランジュの映画を見にきたのに、「ピンク・パンサー」のアニメがはじまったときは、何ごとかと思ったし、なんの映画を見にいったときだったかは忘れたが、ドン・シーゲルの短編が本編のはじまる前に上映されたこともあった。キリストの降誕を東宝の三賢人が祝いにきたという聖書の逸話をパロディにした現代劇で、荒野で道に迷った三人が、遠くにきらめく星をめざして進んでいくと、それは星ではなくて、ガソリン・スタンドの屋根で光っているでっかい星形のネオン・サインで、そこの主人にちょうど子供が生まれるところだった、というような内容だったと思う。ドン・シーゲルの短編なんて、こういう機会でもなければ滅多に見ることができない。すごく得をした気分になったことを覚えている。(SomeCameRunning さんのコメントで、このシーゲルの短編は『クリスマス・イン・コネチカット』の特典映像にはいっていることが発覚しました。)

こういうかたちで短編が上映されるのは、短すぎて興業には向かない短編映画にできるだけ上映の機会を与えるためだと思うのだが、よくわからない。フランスにくらべて自主上映の運動がずっと盛んな日本は、その点で恵まれていて、短編映画にふれる機会はずっと多いといえる。しかし、一般の劇場でも、こういう試みはあっていいのではないか。


ウェス・アンダーソンの新作『ダージリン急行』を見にいって、フランスの映画館のこうした興業のかたちをひさしぶりに思い出した。『ダージリン急行』はある短編映画で唐突にはじまるのだ。

もっとも、それは無関係な短編ではない。"Hotel Chevalier" と題されたこの短編には、『ダージリン急行』の主役の一人ジェイソン・シュワツルマンが、同じキャラクターのままで、同じ鞄を持って登場する。だから、この2作が密接に絡み合っていることはたしかなのだ。しかし、"Darjeeling Limited" というタイトルがスクリーンにあらわれるのは、短編映画のエンド・クレジットが出終わったあとであり、かたちの上では、『ダージリン急行』と短編『ホテル・シュヴァリエ』は別個の作品と考えた方がいいのだろう。いずれにせよ、『ダージリン急行』の最後でジェイソン・シュワツルマンが言及する短編は、明らかに『ホテル・シュヴァリエ』であり、『ホテル・シュヴァリエ』が冒頭におかれることによって、作品は全体として見事に円環を閉じることになる。

いろいろな点で興味深い。が、今日話題にしたいのは別の短編映画だ。アニェス・ヴァルダの初期の短編のことである。


アニェス・ヴァルダなんて、ゴダールトリュフォー、リヴェットやロメールとくらべたらたいした監督ではないと思っている人も多いだろう。実はわたしもそうである、とあっさり認めた上で、ヴァルダの短編は決して悪くないというのが、今日のお話の内容である。

Criterion Collection から出た 4 by Agnès Varda には、『5時から7時までのクレオ』、『幸福』、『冬の旅』と、日本未公開の彼女の処女長編『ラ・ポワント・クールト』のほかに、いくつかの短編が収録されている。

『ラ・ポワント・クールト』(55) は、公開時に批評家から高い評価を受け、いまではヌーヴェル・ヴァーグの先駆的作品とされながら、忘れ去られたとはいわないまでも、正当な注目を浴びずにきた。いまだに未公開の日本はいうまでもなく、フランス本国においてもそのような微妙な位置に置かれてきた作品であることは、冒頭に引いたフロドンの言葉を見てもわかるだろう。

この映画は、異なるふたつの部分によって構成されている。南仏のとある港町にすむ人々の暮らしをオールロケでドキュメンタリー風に描いた部分と、都会からこの町にやってきた若いカップルの関係をいささか芝居がかった調子で描いた部分である。このふたつの部分は見事に調和しているとはいいがたく、むしろ違和感を際だたせているといった方がいい(町は決して小さくない問題を抱えているのだが、ふたりはそれにはなんら関わることなく去ってゆく)。理知的に過ぎるこの形式主義はこの映画の弱さであると同時に、それが作品の新しさでもあったのだろう。

作品の題材はヴィスコンティの『揺れる大地』を直ちに想起させるが、映画を見ているあいだわたしが思い浮かべていたのはロッセリーニの『イタリア旅行』だった。この映画のふたりは、『イタリア旅行』のジョージ・サンダースとバーグマンのように異国をさまようわけではなく、男の故郷である港町の川岸をぶらぶらと散歩するだけに過ぎない。しかし、ぎりぎりのところで関係を保っていた男女が、知らない土地をさまよううちに、どうにかこうにか関係を修復して再出発するという物語を、物語性をかぎりなく排除して描くというスタイルは、まさに『イタリア旅行』のそれである(もっとも、DVD に収録されているインタビューでは、ヴァルダはこの当時イタリア映画は見ていなかったと語っている。イタリア映画とは、もちろんネオ・レアリズモの作品を指しているのだろう)。


Opéra Mouffe (58) は、パリのムフタール通りを、妊娠した女の主観的なイメージをとおして描いたユニークなドキュメンタリー作品だ(ヴァルダはこのとき妊娠していた)。貧しい労働者たちの住むこの界隈を撮ったドキュメンタリー映像に、20年代アヴァンギャルド映画を思わせるイメージがときおり挿入される。『パリところどころ』を先取りしたようなところもある作品だ。


Du côté de la côte (58) は、観光映画とはまさにかくあるべきというドキュメンタリーの小品だ。観光客であふれかえったコートダジュールが、詩的イメージの連続でシュールに描き出されてゆく。ジャン・ヴィゴの『ニースについて』の影響はあきらかだろう。ヴィゴほどの毒はないが、そのかわり、さっき撮っていま現像したばかりといった保存のよさでフィルムに定着された南仏の光によって、現実の様々な断面が、非現実的なほどに色鮮やかな色彩となって浮かび上がる。観光局の注文で撮られた映画とは思えない自由なイメージの乱舞を見ていると、映画作家アニェス・ヴァルダの本領はむしろ短編にこそあると確信する。


もっとヴァルダの短編が見たいのなら、全短編を集めた Varda Tous Courts という DVD がすでに出ている。冒頭のフロドンの言葉は、実は、この DVD が出た際に「カイエ・デュ・シネマ」に載ったフロドンの記事から取ったものだ。このなかにはゴダールの初期評論で賞賛された Ô saisons, Ô châteaux をはじめ、Salut les Cubains (62), Black Panthers (68), Plaisir d'amour en Iran(75) など、ヴァラエティに富んだヴァルダの16の短編が収められている。残念ながら Amazon では扱っていないようなので、手にいれるのは少々面倒だが、Fnac などほかのネット書店などで購入できるはずである。『幸福』は好きでないという人にこそ見てほしい。