ただの覚書です。
Cahiers du Cinéma では、いま、"Bazin mois après mois" と題して、毎月アンドレ・バザンの短い文章をコメント付きで載せている。バザンの書いたものなどとっくにすべて本になっているかと思いきや、どこかの雑誌などに発表されたままほとんど忘れ去られているものも少なくないようだ。バザンは晩年、テレビに非常な関心を示していたらしく、このメディアについて100を超える文章を残していたという。そのうちのひとつが、このカイエでの連載で取り上げられていた。50年以上も前に書かれた記事だが、映画館での DVD によるデジタル上映を予言しているような部分など、いま読んでも刺激的な考察にみちている。
2008年3月号には、「いかにして映画を提示し、議論するか」というバザンの文章が掲載されている。その短い前書きとして、バザンの伝記を記していることで知られるダドリー・アンドリューが、アメリカでのバザンの受容のされ方について語っているのだが、これがなかなか興味深い。
アンドリューによると、アメリカでのバザンの受容には3つの時期を区別することができるという。
バザンの『映画とはなにか』がアメリカで翻訳されて発売されたのが1967年(これは、主要な論文だけを訳した抜粋版だった)。これに衝撃を受けたダドリー・アンドリューは、ほどなくしてアイオワ大学で映画理論について教鞭をとりはじめる。当時の学生たちは、バザンの映画批評がよって立っている哲学的コンテキストがよく理解できなかったようだ。1978年、アンドリューはオックスフォード大学出版からバザンについての批評的伝記 André Bazin を出版する(1983年にフランスでこの本が翻訳出版された際には、フランソワ・トリュフォーが序文を寄せている)。
このころアメリカで読むことができたバザンのテクストは、わずか30編ほどに過ぎなかったが、ダドリー・アンドリューの本の影響などもあって、バザンは比較的好意的に受け入れられていた。
やがて、アメリカにおいても、映画が研究に値する文化として認知されはじめると、映画は、映画を愛しているとは思えない大学の学者たちによって、カルチュラル・スタディーズに代表される文化研究の格好の題材として、利用されるようになる(アンドリューがこういう言い方をしているわけではない。わたしはそう思っているが)。このころになるとバザンの批評はなかば忘れ去られるようになり、この状況が90年代の初めまで続く。
この状況が変わるきっかけになったのが、ドゥルーズの『シネマ』の出版である。ドゥルーズの書物を通じてバザンは再発見される(だが、セルジュ・ダネーはいまだにアメリカではほとんど知られていない。イギリスではアメリカ以上に無名であると、アンドリューはいう)。
1995年ごろ、おそらくはロッセリーニの再評価と呼応するかたちで、コリン・マッケイブやローラ・マルヴィといった(とりわけイギリスの)映画理論家たちがバザンに立ち戻る動きを見せはじめる。昨今のデジタル撮影による映画が、映画におけるリアリズムとはなにかという根本的な問いをふたたび突きつけたということもあるだろう。
『映画とはなにか』は、ダドリー・アンドリューの長い序文を付したかたちで、カリフォルニア大学から3年前に再販された(ただしこれも短縮版で、翻訳も67年版のままらしい)、ラウトリッジ社からは、Bazin at Work という本も出版されている。
(こちらは、「カイエ・デュ・シネマ」から翻訳出版された André Bazin のフランス語版、のようだ)。
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話は変わるが、90年代以後に出現したポール・トーマス・アンダーソン、デイヴィッド・フィンチャー、クエンティン・タランティーノなどの才能ある映画作家たちの作品に顕著に見て取れる「歴史の不在」とでもいったものに、わたしはとりわけ関心をもっている。石油と宗教というふたつのテーマを絡めて描いたPTAの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』が、ブッシュ=チェイニーのネオコンに支配されたアメリカの陰画であるといった話はさんざん語られていると思う。その一方で、この作品の舞台設定が20世紀の初頭のアメリカである必然性は必ずしもなかったこともたしかである(ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』が、どこか架空の国のおとぎ話であってもいっこうに差し支えなかったのと同じように)。
はるばるインドまでロケしながら、インドの現実などまるで関心がないようにみえる『ダージリン急行』のウェス・アンダーソンについても似たようなことがいえるだろう(ここでも、『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラが思い出される)。90年代にはいってバザンが再評価されはじめているというのが本当なら、それはこれら90年代以後の若手の映画作家たちの仕事とどのように関係させて考えればいいのか・・・。