明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ヴィスタも帝国が支配する


TSUTAYA でテレンス・フィッシャーの『吸血鬼ドラキュラ』の DVD を借りて見ていたときの話。

『吸血鬼ドラキュラ』はクリストファー・リーピーター・カッシングが共演したハマー版ドラキュラの記念すべき第一作だ。実は、小さいころ見て以来、見直すのはほとんど初めてだった。画面がヴィスタサイズになっているので、おやと思う。ドラキュラ・シリーズは全部シネスコじゃなかったのか。最初は、シネスコの左右を切ってヴィスタサイズにしてあるのかと思ったが、人物の頭が不自然に切れている画面が多いので、どうやらそうではないらしい。IMDb で調べてみると、『吸血鬼ドラキュラ』のスクリーン・サイズは、1:1.66 となっている。たしかにヴィスタ・サイズだが、これはいわゆるヨーロピアン・ヴィスタというやつだ(ドラキュラ・シリーズは次の『吸血鬼ドラキュラの花嫁』までがヴィスタで、それ以後はシネスコのようである。要確認)。ヨーロピアン・ヴィスタは、アメリカ映画などでおなじみのアメリカン・ヴィスタ(1:1.85)よりも若干横幅が狭いのが特徴だ。この DVD では、ヨーロピアン・ヴィスタアメリカン・ヴィスタのサイズに合わせるために上下を切ってあるというのが正解らしい。

実は、これは最近の映画館ではごくふつうにおきていることで、映画館の構造上ヨーロピアン・ヴィスタの映画が上映できないので、画面の上下を切って無理矢理アメリカン・ヴィスタにあわせて上映するということが当たり前のようにおこなわれているのだ。映画通ならだれでも知っている事実であるが、一般の人は「スタンダード」や「ヴィスタ」という言葉さえ聞いたことがないというのが現実である。ここで一度指摘しておくのも無駄ではないだろう。

(ちなみに、ヨーロピアン・ヴィスタといっても、すべてのヨーロッパ諸国でこのサイズのヴィスタが使われているわけではない。イタリアではアメリカン・ヴィスタがふつうのようだ。おそらくここでもアメリカの支配はじょじょに拡大しつつあるのだろう。)


スタンダード映画についても同様のことがおきている。最近の話をすると、某映画祭のさいに関西のシネコンで上映されたロメールの『アストレとセラドンの恋』は、もともとスタンダード・サイズで撮られている作品なのだが、アメリカン・ヴィスタ・サイズの画面の左右に黒みをいれて上映するというめずらしいかたちが取られていた。ヨーロッパでもスタンダードを上映できる映画館が少なくなっていることを考えてロメールがとった苦肉の策らしい(サイズの問題はそれで理解できるとして、あの終始ピンぼけ気味の画面はいったい何だったのだろう)。

わたしは見ていないが、東京のイメージ・フォーラムでおこなわれたペドロ・コスタの『コロッサル・ユース』でも同様の問題が起きていたようだ(ここを参照)。


まともな上映ができる映画館がどんどんなくなってきているいま、DVD で見たほうがオリジナルに近いかたちで見ることができる場合も少なくないというのは皮肉な話である。しかし、『吸血鬼ドラキュラ』のようなケースもめずらしくはないから、DVD でも安心はできない。わたしはただまともなかたちで映画を見たいだけなのだが、それも簡単にはさせてもらえないようだ。いったい、これはだれの責任なのか。


一般の観客は、なにがおきているのか知らないし、知っていてもことの重大性をわかっていない。人よりも映画について知っているはずの映画評論家でさえ、こういう問題については無知で、無力だ。もうなくなってしまったが、蓮實重彦山田宏一編集の雑誌「季刊 リュミエール」は、こういう広い意味での〈技術〉の問題を積極的に取りあげていたことで、いまでも評価できる。残念ながらそれでなにかが変わったわけではないが、まずは知ることからしかはじまらない。