明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

日々の泡〜デ・ラ・メア「失踪」など


20世紀少年』の原作漫画については、以前にこのブログで書いたはずだと思い、調べてみると、その短い批評を書いたのはちょうど2年前だった。これが映画になったことよりも、このブログをもう2年以上もつづけていたということに、本気で驚く。だらだらやっていたからなんとなくつづけられたのか。



デ・ラ・メア「失踪」という短編を読んだ。「殺人」という言葉も、「殺し」という言葉も、一切出てこないにもかかわらず、「比類のない、最も恐ろしい殺人小説」と評されもするのが、この作品のユニークなところだ。
物語の語り手がロンドンの酒場で、田舎から出てきた男に声をかけられ、かれの長たらしい告白を聞くことになる。男の話は要領を得ないが、どうやら内縁の妻が失踪したということらしい。ただそれだけのことのようなのだが、よくよく聞くと、彼の話にはつじつまの合わない部分がある。その矛盾をとおして物語の真相が浮かび上がってくるとき、じわじわと恐怖が迫ってくるという仕掛けである。しかし、その書き方があまりに繊細なので、よほど注意深い読者でなければ、物語の表層と深層の二重構造に気づかないだろう。鈍感な読者には恐怖することも許されない恐怖小説だ。
男の話を聞いていた話者も、それが殺人の告白であることに最後まで気づかない。凡百の小説なら、最後にそれと気づかせるオチをもってきて話を締めくくるところだが、そんな野暮なことはしないところが、最後まで憎い小説だ。



iPodモーツァルトでいっぱいにし、モーツァルト関連の書物を読みまくっている。



ガイ・マディン Brand upon the Brain

映画作家幼年時代への旅を、キッチュサイレント映画としてフィクション化することで、どこでもありどこでもない時空が浮かび上がる。野心的な作品ではあるが、かなり趣味のいいローゼンバウムがなぜこの作家を高く評価しているのか、少なくともこの作品を見るかぎりではわからない。ドイツ表現主義あたりを意識したのだろうモノクロ画面も、いかにもポストモダン的といいたくなる俗っぽい演出がなされていて、ただただ気が滅入る。世界各地でライブ上映会が行われ、ローリー・アンダーソンをはじめとする多彩なゲストが出演したというが、日本でも上映されたのだろうか。



ちくま文庫『カフカ・セレクション』は予想以上に出来がいいようだ。カフカの短編は、岩波文庫をはじめとしていろんな出版社から出ているが、このちくま文庫版はまったく新しい編集方針で構成され、未完成の作品も数多く収められている。ちくま文庫は大きな書店にしか置いていないし、棚から消えるのも早い。早めに手にいれておいたほうがいいだろう。

カフカ本を調べていてなぜかみつけたのだが、スタニスワフ・レム『宇宙飛行士ピルクス物語』が文庫で出たこともうれしい。



『裸のジャングル』という映画について前にここで書いたことがある。そのときはたいして関心を引かなかったようなのだが、最近、『裸のジャングル』で検索してそのページを訪れる人が少なからずいるようなので、気になって調べてみた。どうやら、メル・ギブソンの新作映画が、このコーネル・ワイルド作品のパクリになっているということがネットで話題になっているらしい。しかし、『裸のジャングル』自体、『猟奇島』のパクリだというのは前に書いたとおりだ。だが、起源の話をし始めると、きりがない。それに映画では、どれほどうまくパクるかが監督の腕の見せ所だったりするのだ。



チェスタトン『木曜日の男』が、『木曜日だった男 一つの悪夢』とタイトルを変えて、新訳で出ていた。わたしにとっては、いまだに解き明かしがたい巨大な謎のような、とてつもない小説のひとつだ。この新訳は、わたしが読んだ吉田健一訳にくらべてはるかにわかりやすいものになっているのだろうが、それがひょっとしたらこの小説の魅力を薄めてしまっているかもしれないと考えると、うかつには手を出せない。



くだらない一言が役に立った。わたしに欠けていたものは場所の思考だった。もやもやしていたものにやっと名前を与えることができた。なにを見るかと同じぐらい、どこで見るかが重要なのだ。