前日、ペドロ・コスタの『コロッサル・ユース』を見に行ったばかりで疲れていたが、「第六回京都映画祭」で上映されるマキノ正博(マキノ雅弘)の『幽霊暁に死す』を見に、祇園会館に向かう。二日連続で映画を見に行くのはずいぶん久しぶりだ。いつ以来だろうか。思い出そうとしても思い出せない。
少し早めについたので、八坂神社をぶらついて意味もなく写真を撮り、上映30分ぐらい前になって劇場に向かう。入り口のところまできたとき、反対方向からやってきた蓮實重彦がすぐ手前で入っていくのが見えたので、ぎくりとする。
パリのシネマテークでじろりとにらまれたこともあるし、ベルナール・エイゼンシッツが来日し、京都のドイツ文化センターでムルナウの『ファウスト』について講演したときは、トイレで隣り合わせになったこともあるが、個人的に面識は全くないので、ああ、いるいると思いながら、背中を見ながら階段を上る。隣には、シャンタル夫人とおぼしき人影も見えた。ふたりが関係者席のある方に消えていくのを見届け、ホールのなかに入る。
映画の上映前に、オープニング・セレモニーが行われることになっていた。退屈そうに思えたので、わざと遅れてきたのだったが、なかに入ってみると、チラシには今日来るとは書いていなかったはずの山根貞男が、長門裕之とマキノ佐代子らしき女性を相手に司会を進行している。ふたりからマキノ雅弘についての話をいろいろ聞き出しているようだ。正面を向いたままで後ろの敵を斬るマキノ独特の殺陣の話など面白かったので、これなら最初から聞いておけばよかったと少し後悔する。
さて、トークが終わり、映画祭のテーマソングが熱唱されたあとで、いよいよ『幽霊暁に死す』の上映が始まる。
尖塔のそびえる教会のショットにつづいて、なかで結婚式を挙げていた長谷川一夫と轟夕起子が、窓を押し開けて入ってきた一陣の風に驚いて振り返る冒頭の場面からして、なにやら日本映画ばなれしている。アパートへと向かうふたりを交互にとらえたカットバックも、軽快というよりは、『血煙高田馬場』で疾走する阪東妻三郎をとらえたシークエンスを思い出させて、大胆である。
『幽霊曉に死す』は、一言で要約するなら、この世とあの世の間をさまよう幽霊が、息子夫婦の手を借りて恨みを晴らし、成仏してゆくという物語を、コミカルに描いた作品で、ルネ・クレールの『幽霊西へ行く』あたりを思わせるしゃれた映画なのだが、若夫婦が、幽霊屋敷と噂される別荘に向かって、ジャングルのような森を抜けようとしていると、凄まじい強風が木々を揺らし、恐れをなした案内役の巡査(坂本武)がふたりを残して退散するあたりなど、ユニバーサル・ホラーやハマー・プロと比較してもやりすぎに思えるくらいだ。
せっかく息子夫婦にお膳立てしてもらいながら恨みを晴らせずにいた長谷川一夫扮する幽霊が、花菱アチャコ(いつもは浮いた役をやっているが、この映画ではなかなかいい役回りをもらって活躍する)にハッパをかけられて意を決すると、突然屋敷の明かりが消え、強風にカーテンがパタパタと音を立てて翻り、居間に集まっていた強欲な親族たちが震え上がるなか、ひとり平静を装っていた斎藤達雄が、幽霊に一喝されてついに恐怖に顔を歪める画面などは、並のホラー映画よりもずっと出来がいい。マキノが本格的なホラーをとっていたらすごかったんじゃないかと思ってみたりするが、あれだけ多くの作品を撮りながら、怪談映画といえるものはほとんど撮っていないようなのが意外だ。
この映画では、長谷川一夫が息子と父親の幽霊の二人一役を演じているのだが、ふたりを同時に画面におさめた合成画面などのトリック撮影は非常によくできていて、古めかしさを全く感じさせない。鏡も効果的に使われていた(鏡に映った幽霊の長谷川一夫を轟が見る場面で、そのままキャメラがパンして角度を変えてゆくと、その先には、息子の長谷川一夫が鏡のなかに映っているはずなのだが、残念ながら、その手前でカットは終わってしまう)。
映画が終わって帰ろうとしていると、階段のところで蓮實重彦と目が合ってしまう。わからぬ程度に会釈して敬意を示し、そのあとから階段を下りる。外に出て、蓮實夫妻はどこに消えたのかなと考えながら立っていると、だれかわたしに声をかけてくるものがいる。見ると、プラネットの安井喜雄 氏と神戸映画資料館の支配人の田中範子さんだった。今回は16ミリによる特別上映がだったので、ひょっとしたら映写を担当していたのかと思ったが、ふたりとはすぐに別れてしまったので、聞きそびれた(上映が終わってすぐ出てきたので、たぶん見に来ていただけだろう)。
そういえば、安井氏の友人でもある加藤泰が書いた評伝『映画監督 山中貞雄』が最近復刻したので、読んでいない人は買いましょう。