明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。































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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

グラウベル・ローシャの処女作と遺作

[10月23日のメモランダム]


・1944 - 太平洋戦争: レイテ沖海戦はじまる。
・1956 - ハンガリー動乱ハンガリーの首都ブタペストでソ連軍の撤退などを求める20万人のデモ隊が治安警察と衝突。
・1981 - 写真週刊誌「フォーカス」が創刊される。
・1989 - ハンガリー共産党独裁政権が倒れる。
・1998 - Israeli-Palestinian Conflict: Israeli Prime Minister Benjamin Netanyahu and Palestinian Chairman Yasser Arafat reach a "land for peace" agreement.
・2002 - Moscow Theatre Siege begins: Chechen rebels seize the House of Culture theater in Moscow and take approximately 700 theater-goers hostage.<生誕>
1936 - フィリップ・カウフマン
1954 - アン・リー
1959 - サム・ライミ<死亡>
1990 - ルイ・アルチュセール

グラウベル・ローシャ


Barravento (62)

エイゼンシュタインの『メキシコ万歳』やフラハティの『モアナ』などとも比較される作品だが、なによりもヴィスコンティの『揺れる大地』の影響が濃厚に感じられる、グラウベル・ローシャの長編デビュー作。ある意味、ローシャが撮った最も普通の映画ということもできる。都会から故郷の漁村に帰ってきた若者が、迷信に支配され、甘んじて搾取されつづける村民たちを啓蒙して、自由に目覚めさせようと努力するが、だれからも理解してもらえない。とりわけ、村民たちから神の子として崇められている若者との対立がしだいに激しくなり、悲劇的な結末を迎えるが、それでも村民たちはなにかに目覚める。嵐を意味するタイトルは、左翼革命的でもあり、神秘主義的でもあるこの映画の性格をよく表している。ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが編集を担当しているのも注目。



A Idade da Terra(「大地の時代」) (81)

ローシャの遺作であり、チネマ・ノーヴォ最後の作品ともいわれる。この映画の混沌とした内容を要約するのはほとんど不可能に近い。わたしはグラウベル・ローシャの作品を4、5本しか見ていないが、これはローシャの全作品のなかでももっともラディカルな作品かもしれない。日の出のイメージにはじまり、アヴァンギャルド演劇風の即興芝居、カーニヴァルを撮影したドキュメンタリー映像、ブラジルにおける革命の挫折を語るカルロス・カステロ・ブランコのインタビュー、「社会主義にも貧しい人びとと富める人びとがいる、資本主義にも貧しい人びとと富める人びとがいる。要するに、貧しい人びとと富める人びとがいる」と語るナレーションなど、一つひとつのシーンが、ほとんど脈略なく並べられていく。多くのシーンは即興で演出され、俳優たちはまるでリハーサルであるかのように、同じ台詞を何度も繰り返し発しつづける。ときにはローシャ自身の演技指導する声が画面外から聞こえてきさえする。「イタリアの偉大な詩人パゾリーニが殺された日、わたしは第三世界におけるキリストの生涯を映画に撮ることを思い立った」。監督本人らしきナレーションが、終わり近くになってそう語る(パゾリーニがローマ郊外のオスティア海岸で惨殺死体となって発見されたのは、この映画に数年先立つ1975年のことだった)。実際、この映画には、インディオのキリスト、黒人のキリスト、軍人のキリスト、革命戦士キリストなどとクレジットでは名付けられている幾人ものキリストたちが登場し、観客を混乱さす。晩年、軍事独裁を擁護するような姿勢を示し物議をかもしたともいわれるローシャだが、この映画におけるキリスト教のイメージも混沌としていて、にわかには捉えがたい。

膨大な長さのフィルムが撮影され、最終的に2時間半近くの上映時間におさめられた。ローシャの当初の意図では、各シーンをどの順番に映すかは映写技師に任せるという、これもまた過激な上映方法を考えていたらしいが、結局、最初にヴェネチアで上映されたときの編集でしかその後上映されることはなかった。わたしが見た DVD では、ひとつの実験の試みとして、各チャプターをランダムに並べ替えて再生できる仕組みになっている。DVD ならではの遊びというべきか。

それで思い出したのが、フレデリック・ワイズマン『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』の日本で発売されている DVD のことだ。ワイズマンの映画は、人物の固有名詞や役職などをほとんど出さないことで有名なのだが、この DVD では説明モードを選択すると、人物の名前が字幕で出てくるようになっているのだ。自分の映画の DVD にチャプターをつけることさえ許していないストローブ=ユイレなら激怒するところである。ワイズマンもまだまだ詰めが甘い。(ちなみに、Amazon のコメントを読むと、このシステムは一部では好評だったようです。笑える。)




ブリュノ・デュモン

『ジーザスの日々』(La vie de Jesus

最初に見たブリュノ・デュモンの映画『ユマニテ』は、終止イライラさせる映画だったが、それでも心を引きつけるなにかがあった。それがこの処女作にはなにもない。いらだちさえ感じない。

確認はしていないが、ここに描かれているのはたぶん『ユマニテ』に出てきたのと同じフランス北部の田舎町だろう。ここがデュモンの故郷なのかどうかは知らないが、これが彼の原風景であることは間違いない。主人公は、仕事もなく、仲間たちとバイクを走らせて、時おりくだらないばか騒ぎをするだけの日々を過ごしている。この生活に決して満足しているようには見えないが、まともな生活をしろという母親にはうんざりし、恋人の言葉にも耳を貸さない。かれらの鬱屈したエネルギーは、やがて、町に住むアラブ人の青年に対する憎悪というかたちをとって、リンチ殺人という最悪の結末を迎える。

共感が持てる人物がひとりも出てこない、救いのない物語である。素人ではないので、自己同一化できる人物がいないから悪い映画だなどというつもりはない。しかし、せめて映画的には救われたいではないか。わたしは、少なくとも3本見るまではその監督についての結論は出さないという、なんの根拠もないルールを自分に設けているのだが、これを見て、この監督はもういいかという気になりかけている。それでも、カンヌでグランプリを撮った『フランドル』はやっぱり見ておいた方がいいのかと、現在思案中だ。

それにしても、これもジーザスか(まあ、あのジーザスとは直接は関係ないんだけど、もちろん無関係ではない)。骨の髄までキリスト教がしみ込んだ旧大陸