[10月26日のメモランダム]
1881 - アリゾナ州トゥームストンでOK牧場の決闘がおこなわれる。
<生誕>
1912 - ドン・シーゲル (ー1991)
<死亡>
1440 - ジル・ド・レ (ー1404)
OK牧場の決闘に歴史上の日付があったのかと知ると、なんだかドキリとする。
というわけで、今日は西部劇の話を・・・
これを見ると、結局、マンキーウィッツは西部劇が撮れなかったのだと考えた方がいいようだ。しかし、それはこれが失敗作だということを意味しない。いや、たしかに興行的には失敗したし、西部劇として見るなら、傑作というよりは変わり種といった方がいい作品だろう。しかし、マンキーウィッツとしては決してマイナーな作品ではない。くれぐれも侮って見ないようにとだけはいっておく。
映画の時代設定はたしかに西部劇のそれである。しかし、マンキーウィッツが撮った最初で最後の西部劇であるこの作品には、西部劇でなければならない必然性はどこにも見当たらない。物語の大部分は、荒野の真ん中にぽつんと置かれた要塞のような刑務所のなかで展開する。西部劇に出てくる刑務所といえば、町の保安官事務所と同じ建物のなかにいくつか並べられた鉄格子の牢屋(jail)を思い浮かべるのが普通だ。こういう刑務所が出てくるのは珍しいし、まして、そこが舞台の中心となる西部劇は、これが初めてだっただろう。刑務所ものと西部劇を融合させるというのがこの映画のアイデアだった。
刑務所の外に盗んだ大金を隠し持っているカーク・ダグラスが、囚人たちを言葉巧みに利用して、脱獄を企てる。なにやら「プリズン・ブレイク」を思わせる物語だが、マザー・グースからとられた "There was a crooked man" という原題から見当がつくように、シリアスなドラマというよりは、ブラックなコメディに仕上がっている。おそらく、マンキーウィッツがなによりも描きたかったのは、酒もたばこも女も興味がないピューリタン的な「善人」である刑務所長(ヘンリー・フォンダ)の変貌ぶりだったのだろう。男からも女からも愛される悪人カーク・ダグラスを秘かに嫉妬しているフォンダは、最後に、ダグラスを模倣して、そのアイデンティティを盗むことに成功する。この映画の物語をそう解釈することも可能なのだ。そう考えるなら、この映画は『イヴの総て』と同じ物語を描いているということもできる。しかし、エキセントリックなキャラクターが次々と描き加えられて、映画は最終的にディケンズふうの群像劇に近づいている。そのため、ダグラス=フォンダの鏡像関係が見えにくくなっているのが残念といえば残念だ。
脚本を書いたのは、『俺たちに明日はない』のデイヴィッド・ニューマンとロバート・ベントン。ロバート・ベントンは後に監督となって数々の佳作をとることになる。ハリウッド随一といってもいいストーリー・テラーだったマンキーウィッツと若いロバート・ベントンのあいだには、撮影中、いわば師弟関係のようなものができあがっていたという。
西部劇といっても、馬が登場するのは冒頭と最後だけ。拳銃が発射されるのも、ラストの数分間に限られている。しかも、致命的な一撃を与えるのは、拳銃ではなくガラガラヘビなのだ(この映画のフランス語タイトルは Le reptile、ずばり「蛇」である)。撃ち合いのアクション・シーンもよくできているとはいえない。しかし、その数少ない「殺し」のシーンが妙に生々しいのが不思議だ。
西部劇がジャンルとしての神話性を失い、外国製のまがいもの(マカロニ・ウェスタン)の輸入によって存在感を失いつつあった時代にとられたこの映画には、西部劇に対するシニカルな視線が随所に感じられる。たとえば、ラストで、カーク・ダグラスを追跡するヘンリー・フォンダは、馬の足跡ではなく、馬糞によって彼が逃げた方向を知る。西部劇のクリシェへの目配せは、探せばほかにいくらでもあるだろう。といっても、マンキーウィッツには西部劇の神話を破壊してやろうという気はさらさらなかったに違いない。要するに、これは西部劇である前に、マンキーウィッツの映画なのだ。