明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ナンニ・モレッティ『Il Caimano』 ほか


シャブロルの70年代黄金時代の DVD が紀伊国屋から発売される。

『クロード・シャブロル コレクション 肉屋』

不貞の女』なども出るようだが、 Amazon ではまだ注文できないようだ。実をいうと、わたしはそれほど喜んでいない。どれも見ているというのもあるが、それだけではない。画質にあまり期待できないからだ。

この時代のシャブロルは、アメリカでも DVD 化されている。その一部を見たことがあるのだが、ひどいものだった。正視できないほどの代物ではないが、いわゆるビデオ並みの画質というやつで、なんでこんなのに片面2層も使ってるのか理解に苦しむものだった。フランスでもこの頃のシャブロル作品は BOX で発売されている。こちらは見ていないが、Amazon.fr のコメントを見ると、やはり評判はよくない。画面サイズにも問題があるとのコメントがある(ばら売りされている『肉屋』に関しては、特に悪い評判はないようだが)。

紀伊国屋の外国映画の DVD は基本的に海外で出ているものを移植しただけというのがほとんどだ。ネガから起こして DVD にトランスファーするまでを自分で責任もってやっているわけではない。これもそうだとすると、同じソースを使っている可能性が高い。となると、あまり期待できない(杞憂であってほしいが、紀伊国屋はしょせん本屋なので、いまいち信用できないのだ)。



☆ ☆ ☆

ナンニ・モレッティ Il Caimano


2006年に行われたイタリアの総選挙直前に公開され、大ヒットとなったナンニ・モレッティの最新作(短編をいれると、この後、『それぞれのシネマ』のために撮られたものが最新作になる)。

映画創造の挫折を語る『81/2』ふうの物語のなかに登場する映画内映画というかたちではあるが、ベルルスコーニを初めて正面切って描いたイタリア映画といえるのではないだろうか。

自分の妻演じるスーパー・ウーマンが共産主義国賊を殺しまくる低俗ヴァイオレンス映画ばかりを撮っていたプロデューサーが、前作の興行的失敗の後の長い沈黙を破ってひさびさに新作を撮ることになる。だが、コロンブスの帰還を描くその新作は、結局、監督が予算不足を理由に降りたために頓挫する。プロデューサーは、監督志望の若い見知らぬ女から手渡されたシナリオを、よく読みもせずに映画化することに決める。しかし、それはベルルスコーニをあからさまに描いた左翼映画だった。体制迎合的な映画を撮っているために右翼とか、ファシストと呼ばれているが、実際はただの気の弱い男であるプロデューサーは、最初、この大胆な題材に尻込みするが、紆余曲折あって、映画はシナリオを書いた女性を監督に起用して映画化されることになる。しかし、ベルルスコーニを演じることになっていた主演俳優が、またしても降板し、急きょ代役が立てられることに・・・

というわけで、ベルルスコーニを最終的に演じることになるのが、モレッティ本人である。この映画は、モレッティが珍しく主役を演じていないことでも注目すべき作品だが、映画内映画ではかれが主役を演じるかたちになっているわけだ。モレッティベルルスコーニをまるでマフィアのように冷酷に演じていておもしろい。

しかし、この作品は、マイケル・ムーアの『華氏911』のような、単なるネガティヴ・キャンペーン映画とはちがう。もっとずっと複雑な映画である。モレッティ自身が映画の登場人物のひとりにいわせているように、ベルルスコーニがどういう人物であり、なにをしてきたかはすでに語り尽くされてきたし、それを今更指摘したところでなにがどう変わるというわけでもないのだ。どういう人物か知りながら、それでもベルルスコーニを支持するイタリア人が数多くいるのはなぜなのか。それはイタリア人の国民性そのものに関わっている問題ではないのか。この映画でモレッティは、そういう根深いところまで問題を突き詰めて描こうとしていたのに違いない。

この映画が、ベルルスコーニを描くと同時に、崩壊する家族の物語でもあるのは、そのためである。主人公のプロデューサーが、映画製作においても、夫婦関係においても、危機に陥っていく一方で、映画内映画のベルルスコーニは権力の座を上り詰めてゆく。この鏡像関係は、ふたりの違いを対比しているようでいて、その実、ふたりの類似を際だたせている。かれとベルルスコーニは結局同じかもしれない、あるいは、われわれすべてがベルルスコーニと同じかもしれない。そういう視点がこの映画には見え隠れしているように思える。

この映画の直後に行われた選挙でベルルスコーニはめでたく敗北し、首相の座を退くことになるのだが、その数年後、執念深く権力の座に再び返り咲き、いまに至っている。モレッティのこの新作は日本では未だに公開されていない。この映画が撮られたときの歴史的文脈はすでに過去のものとなって鮮度を失ってしまったが、時機を失してしまったいまだからこそ、この作品の真価が問われるということができるかもしれない。


(ちなみに、蓮實重彦はこの作品を Film Comment 誌の 2007 年のベストテンの一つに選んでいる。念のため。)