Coffret mitchell leisen : la baronne de minuit ; jeux de mains
去年の秋ごろ、フランスでミッチェル・ライゼンのボックスが出たのを紹介し忘れていたので、ここに書いておく。
収録されているのは Midnight (39, 未) と『春を手さぐる』(Hands across the table, 35) の2作。
ミッチェル・ライゼンはなぜか気になる監督だった。とはいえ、正直、それほど優先順位が高い監督ではない。つい後回しにしてしまいがちなので、今のところ4本ほどしか見ることができていない。
最初に見たのは、キャロル・ロンバートとフレッド・マクマレーが共演した音楽映画『スイング』だった。ライゼンの代表作の一つに数えられる映画だが、ロンバートとマクマレーの演技をのぞけば、さして見どころがある作品とは思わなかった。淀川長治のいうとおりそんなたいした監督でもないのかなというのが、このときの素直な感想である。
(おそらく、日本でソフト化されているミッチェル・ライゼンの作品は、この作品と『100万ドル大放送』だけだろう。どちらもジュネス企画からビデオが出ているだけで、DVD にはなっていない。今は、ビデオショップで見つけるのも難しいだろう。)
次に見た『黄金の耳飾り』については、このブログにも書いたことがあるので、詳しくは書かない。興味深い作品ではあったが、これもいまひとつだった。
やっぱりこの程度の監督なのか。そう思って次に見たのが、『街は春風』(Easy Living) だ。これはプレストン・スタージェスの脚本とあって、さすがにおもしろかった。ただ、レイ・ミランドがコメディの主演というのは、最後までピンとこなかった。37年に撮られたこの作品で印象に残っているのは、金持ちの息子でありながら、家を出てアルバイトしているレイ・ミランドが働いているセルフ・サーヴィスの店だ。格子状のガラスの仕切りを開けて、客が自分で食べ物を取り出すというスタイルのセルフ・サーヴィスが、この時代にもうあったことに驚いた。ふつうの人よりはかなりたくさん古いアメリカ映画を見ているつもりだが、こういう光景を見るのは初めてだった。
「街は春風」という邦題の意味はわたしにはよくわからない。『春を手さぐる』の「春」にたぶんかけたんだろう。もっとも、「春を手さぐる」というタイトルも、原題の Hands にひっかけただけで、たいして内容に合っているようには思えないが、こちらは見ていないので何ともいえない。
登場人物が身分を偽っていることから生まれる喜劇的シチュエーションを描いている点で、『ミッドナイト』は『街は春風』と似ている。成り行きで男爵夫人を名乗ることになってしまったクローデット・コルベール、彼女にぞっこんのタクシー運転手ドン・アメチー、妻に不倫されながらその状況をなぜか楽しんでいるようなジョン・バリモア、それぞれがしかるべき場所に収まっているし、愛人を奪われて嫉妬する人妻メアリー・アスターもなかなかよい。
いままで見たミッチェル・ライゼン作品では、これがわたしの中では圧勝だった。
よくできた脚本だと思ってみていたら、あとで、ビリー・ワイルダーの脚本だとわかった。どうしてわかったかというと、わたしがこのブログにむかし書いた記事にそう書いてあったのだ。自分で書いたことも忘れるとは耄碌したものだ。
脚本といえば、『黄金の耳飾り』の脚本はエイブラハム・ポロンスキーだった。それは前にブログでも書いた。ただ、そのときは意識していなかったが、考えてみると、ミッチェル・ライゼンはひとりでプレストン・スタージェス、ビリー・ワイルダー、エイブラハム・ポロンスキーの脚本を映画化したことになる。そんな監督がほかにいるだろうか。
それだけでもすごいと思うのだが、日本ではミッチェル・ライゼンは一部の映画ファンのあいだでしか名前を知られていないようだ。別にアンケートを採ったわけではないので、その辺の真偽を問われても困るが、Allcinema で『春を手さぐる』『ミッドナイト』『街は春風』『淑女と拳骨』といった彼の代表作を調べても、だれひとりコメントを寄せていないところを見るとどうやらそうらしい。
『ミッドナイト』がリメイクされるかもというニュース(ただし2007年の)が Allcinema で取り上げられているのをさっき発見したが、その後実現したのかどうか。興味がないので調べていない。
『春を手さぐる』と『淑女と拳骨』がパッケージで出たら心を動かされるのだが、なかなかこちらの思ったようにはいかないものだ。