明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

リチャード・クワインとキム・ノヴァク


グラン・トリノ』をやっと見に行く。呼吸がほとんど西部劇だ。なにげに床屋も出てくる。西部劇に出てくる床屋では、散髪ではなく、決まって髭剃りだけが行われるのだけれど、この映画では、ひげだけは剃らなかったイーストウッドが最後の最後にひげを剃るのがいい。でも、結局、引き金は一度も引かれないのだけれど・・・。


☆ ☆ ☆


リチャード・クワイン『逢う時はいつも他人』 (Strangers When We Meet, 60)

日本では数年前に DVD が発売されているが、ほとんど注目されていない。ところが、ヨーロッパでは最近ソフト化されたこの作品が、なぜか高い評価を受けている。最初、「フィルムコメント」誌で取り上げられていたのを見て注目し、その後、「カイエ・デュ・シネマ」でも、DVD 特集で傑作として紹介されていた。正直言って、リチャード・クワインという監督にはさして関心もなかったのだが、そんなに言うなら見てやろうと思った。

結論から言うと、それほどの作品でもないだろうというのがわたしの受けた印象だ。とはいえ、たしかに注目すべきところも多い。アメリカの平凡な田舎町で出会った、互いに家庭を持つ男女の不倫が、この映画で語られる物語だ。その田舎町の日常をとらえた描写が、この映画の鈍い魅力の一つである。まだプロダクション・コードにしばられていた時代のアメリカ映画の夫婦関係のモラルを象徴するツイン・ベッド上で、欲望のはけ口を見いだせずにいるキム・ノヴァクの描写は、この時代としてはまれに見るほど直接的なものであると言っていいだろう。

不倫相手のカーク・ダグラスが新進の建築家というのは最初どうかと思ったが、見始めてみると全然違和感はなかった。奇抜な建築で知られる彼がその町で請け負った仕事は、自分の進むべき道で迷っている小説家の新居。映画の最後でようやくその建築は完成するのだが、これがジャポニスム丸出しの珍妙なしろもので、ノヴァクとダグラスの最後の別れはそこで演じられる。

不気味な傍観者を演じるウォルター・マッソーも悪くない。こういう人物がいると物語がぴりっと締まるのだ。暇があったら、映画における傍観者の系譜というのを考えてみてもいい。映画史にはしばしば、忘れがたい傍観者が登場するものだ。



リチャード・クワインキム・ノヴァク主演で少なからぬ作品を撮っている。なかなか機会がなくて、わたしが見ているのはこの『逢う時はいつも他人』と『悪名高き女』 (The Notorious Landlady, 62) ぐらいだ。

『悪名高き女』でキム・ノヴァクは、行方不明の夫を実は殺害しているとんでもない悪女(と疑われている)女を演じている。『深夜の告白』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を彷彿とさせるフィルム・ノワールふうの物語が語られるのだが、ノヴァクの色香にたちまち魅了されてしまう相手役がジャック・レモンであるのを見てもわかるように、シリアスなものではなく、探偵映画の骨格を借りただけのコメディで、印象としては、ブレーク・エドワーズの映画に近いものだ。他愛もない映画だが、それなりに楽しめる。

この二本を見た後で、山田宏一『美女と犯罪』をぱらぱらと読み直していて、リチャード・クワインキム・ノヴァクが愛人関係にあったことを知った(「蛇足ながら、キム・ノヴァクフランク・シナトラのもとへ走ったあとには、リチャード・クワイン監督はキム・ノヴァクに夫殺しの噂のある美女を演じさせた『悪名高き女』を撮るのだ!」)。

『悪名高き女』を見ていて思ったのだが、フィルム・ノワールはいつ頃からパロディの対象となり得ていたのだろうか。例えば、フランケンシュタイン、ドラキュラなどのユニヴァーサル・ホラーは、シリーズが終わるか終わらないうちに、同じユニヴァーサルによって、同じセット、同じ俳優を使ってパロディにされている。あるいは、H・C・ポッターの有名な Hellzapoppin (41) では、同じ年に撮られた『市民ケーン』のそりのエピソードがすでにパロディにされている。

ハリウッドでは、何もかもがすぐさまパロディの対象となってしまう。では、フィルム・ノワールはいつ頃から、パロディの対象となりうるほどにジャンルとして認識されていたのだろうかというのがわたしの疑問だ。フィルム・ノワールについて書かれたものは数多い。その多くは、『マルタの鷹』をフィルム・ノワールの最初の作品としているが、ヒューストンらがフィルム・ノワールを撮ってやろうと思ってこの映画を作ったわけではないことは言うまでもない。では、いつ頃から、作り手たちはフィルム・ノワールをジャンルとして意識し始めたのだろうか。

話がそれた。クワインとノヴァクに話を戻そう。わたしが今見たいのは、山田宏一が『美女と犯罪』のキム・ノヴァクの章で紙数の大部分をさいている作品、『殺人者はバッヂをつけていた』だ。これは『悪名高き女』とは違って、正真正銘フィルム・ノワールになっているらしい。ノヴァクの演じるのは、バーバラ・スタンウィックラナ・ターナーのような悪女なのだが、フィルム・ノワールの悪女にはなりきれないところが、ノヴァクの魅力であると山田宏一は書いている。『殺人者はバッヂをつけていた』はフランスでも評価が高く、わたしはこれがリチャード・クワインの最高傑作ではないかとにらんでいる。何よりもタイトルがいい。

残念ながら、日本ではソフト化されていないし(またしても!)、海外でもスペイン版 が出ているぐらいで、手に入りにくい状態だ。だれか、日本で出してくれないだろうか。