林道を歩く団体旅行客をトラックバックで撮ったファースト・シーンから、何か新鮮きわまりない風が吹いている。キャメラの位置はこんなに遠くでいいんだろうか。どことなく素人っぽいといえなくもない画面の連続に、初めて見るような感覚に襲われる。この映画を見るのは今度が初めてなので、当たり前といえば当たり前なのだが、そういうことではない。清水宏の映画を見ていると、今まで自分が映画など見たことなかったかのような気になることがあるということだ。
長年映画を見ているうちに、今見ている映画を過去の映画と照らし合わせて類型化してしまう癖が付いてしまっている。この話は次にこう展開するぞとか、このショットの次はこういうショットが続くぞとか、なんとなく予想がつき、それが外れた場合でも、ああ、こっちの方だったかと、結局は予定調和なところに落ち着く。しかし、清水宏の映画の場合は、なにが特に変わっているわけではないのに、どうも枠にはまらないというか、勝手にこちらが思い描いていたイメージをするするとすり抜けてしまう。
この映画も、「簪」というタイトルから想像していたものと違って、最初から笑いの絶えない楽しい作品で、イメージを裏切られる(まあ、勝手なイメージだが)。映画の舞台となるのは、東京から離れた田舎の温泉宿。そこでたまたま部屋を隣り合わせた客たちの交流を、映画はユーモラスに描いてゆく。斉藤達雄、笠智衆、坂本武といった小津組の面々を中心に、マドンナ的な存在で田中絹代が加わった豪華な俳優陣だ。「先生」と呼ばれて、何かと持って回った言い回しで相手を困らせる斉藤達雄が、とりわけ見ていておかしい。台詞のユーモアは原作の井伏鱒二のものかもしれないが、日守新一などとの絡みで見せる「間」が最高だ。
『按摩と女』は歩くというアクションを魅力的に見せる映画だった。『簪』では笠智衆が足をけがして歩けなくなることで、歩く行為がなおさら強調される(彼は田中絹代が風呂場に落とした簪を踏んでけがするわけで、それがタイトルの由来にもなっている)。笠智衆は、清水映画の代名詞といってもいい子供たち二人と歩行訓練をつづけ、そこに田中絹代も参加し、二人のあいだに淡いロマンスのようなものが生まれそうになる。笠智衆は徐々に歩行距離を伸ばしてゆき、ついには、浅瀬に渡したジグザグの足場を一人でほぼ渡りきるまでに至る。その直後に、同じ足場を二人の按摩が歩いていくのを、子供たちがお節介に応援するのがほほえましい。清水宏とキアロスタミの共通点は多いが、ジグザグ道も加えておこうかという気になる。
やがて夏も終わりに近づくと、客たちはあっさりと宿を引き払ってゆく。笠智衆は、最後に、長い石段を子供たちに励まされながら登るのだが、それを登り切ったところで田中絹代とのあいだに生まれかけたあるかなきかのロマンスも終わってしまう。愉快な映画だが、そこに漂う詩情は曰く言い難い。さらには、この作品が戦時中に撮られたことを考えると、ここに流れる至福の時間にも、禁じられた遊びめいた暗い影がさす。陰影の深い映画だ。