明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

いくつかの近作についての短い覚書1〜ベルトラン・ボネロ『De la guerre』


3作ほどまとめて書くつもりだったが、「短い覚書」としたわりには長くなってしまったので、いくつかに分けてアップすることにした。まずはフランス映画『De la guerre』から。

ベルトラン・ボネロ『De la guerre』


変な映画である。

マチュー・アマルリック演じる映画監督、ベルトラン(監督と同じ名前だ)は、次回作(これもボネロが実際に撮った映画と同じ題だったりする)の準備のためにパリにある葬儀屋を訪れ、そこで一夜を過ごす。なにを思ったか、ベルトランは置かれてあった棺桶のなかに横たわる。すると、ふたが閉まり出られなくなってしまう。この擬死の体験がすべての始まりだ。この体験でなにかを悟った彼を待ち受けていたかのように、見知らぬ男シャルル(ギヨーム・ドパルデュー)が彼の前に現れ、現代では快楽をうることは戦争なのだと説き、ベルトランを森の中にある別荘へと連れて行く。

そこは「王国」と呼ばれていて、彼のようなものたちが多数集められ、社会から隔絶されて共同生活をしている。カルト集団、自己啓発セミナーといったものを思わせるこの怪しげな集団の中心にいるのが、アーシア・アルジェント演じる謎の女ウマだ。どうやらここでは、生の快楽あるいは意味をうるために、戦争の理論を適用して訓練が行われれているらしく、映画の章立てもそのようになっている。ウマがクラウゼヴィッツの『戦争論』(この映画のタイトル "De la guerre" は、この本の仏題である)を手にしているショットもあったりするのだが、クラウゼヴィッツはとりあえず直接には関係ないと言っていいだろう。実際、この奇妙な共同体のメンバーたちは、音楽を聴きながら寝そべって瞑想したり、森のなかでトランス状態で踊ったりといった、戦争とはかけ離れたヒッピーのような生活をしているだけにしか見えない(森の中のユートピア的な生活をとらえた美しい描写は、パスカル・フェランの『レディ・チャタレー』とこの作品を結びつける)。

主人公ベルトランが、ためらいながらも、次第にその共同生活のなかへと引き込まれてゆく様子を、ボネロは、特にドラマ化することなく描いてゆく。

この奇妙な集団生活者たちは、自らの原始的欲望を解き放ち、ときには獣の仮面をかぶって森を走ったりする。人間は、都会ではふだん、頭と体を分離させて生きているが、ここではこの二つが一体となる体験が得られるのだ。そして、それこそはまさに、戦争のなかで起きることではないか…

やがて彼らの生活も武器を持った実践モードへと突入していくのだが、誰とあるいは何と戦うためなのかは、相変わらずよくわからない。ベルトランは妄想のなかで自分を『地獄の黙示録』のウィラード大佐と重ね合わせてゆくようで、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐の有名な台詞、「カミソリの上をカタツムリが…」をつぶやいてみせたりもする(あるいは、『地獄の黙示録サウンド・トラックがそのまま引用されるのだったかもしれない)。この映画のなかにもカーツ大佐を思わせる人物が登場するのだが、たぷたぷの腹を見せてベッドに横たわっていたその男がむくっと起き上がると、それが老ミシェル・ピコリだったりするのだ。

クラウゼヴィッツは「戦争は政治の延長である」といった。この映画がクラウゼヴィッツと関係があるとするなら、おそらくこの一点だけだろう。この映画に政治的なニュアンスが込められていることは間違いない。具体的にいうと、68年に対する現代からの返答ということだと思うのだが、字幕なしで見たこともあって、正直、よくわからない映画だった。

しかし、フランス語の "déroutant" という言葉がまさにふさわしい、人を戸惑わせるような作風はたしかに魅力的ではある。都会と自然、官能と理論、 いろんな要素が混ざり合っている。『地獄の黙示録』だけでなく、クローネンバーグの『イグジステンズ』の引用も、「内的旅」、「現実/フィクション」、そして「映画」といったテーマで本作と結びつけて解釈できる。そして冒頭でいきなり引用されるボブ・ディランも、無論、偶然使われたわけではないだろう。ただ、それらの雑多な要素が強度を増幅させるというよりは、相殺しあって、作品を小さく見せてしまっているという印象は残った。


音楽というか、音の使い方がうまく、オリジナル・ミュージックに監督の名前がクレジットされているので、調べてみると、どうやらボネロはクラシック音楽が出身のようである。なるほど。