明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

いくつかの近作についての短い覚書2〜『Bamako』


アブデラマン・シサコAbderrahmane Sissako『Bamako』


フランス映画『De la guerre』に続いて、アフリカ映画『Bamako』を紹介する。2006年の作品なので少し古いが、いまだに未公開だ(公開される可能性は低いだろう)。アフリカ映画祭などのかたちでは上映されたことがあるようである。今後も、そういうかたちでの上映ならあるかもしれない。


タイトルの「バマコ」は、アフリカのマリ共和国の首都の名前だ。マリ共和国がどのような国なのかについては、わたしは百科辞典的な知識しか持ちあわせていない。それをここで書いても仕方がないので、興味がある人は Wikipedia でも見ていただきたい。

映画的には、マリはスレイマン・シセの出身国として知られる。ウスマン・センベーヌセネガル、イドリッサ・ウエドラオゴのブルキナ・ファソマリ共和国の隣接国であり、かつてフランス領スーダンと呼ばれたマリ同様、フランスの植民地だった国々だ。アフリカ映画の先進的な部分の多くが旧フランス領からの独立国から生まれているというのは、皮肉な話ではある。ちなみに、これらの国はいずれもフランス語を公用語としている。ついでだが、スレイマン・シセもウスマン・センベーヌも、奨学生としてモスクワの映画学校に留学した経験をもつ。いずれもモスクワというのは単なる偶然なのだろうか。調査の必要があるかもしれない。


映画『Bamako』には主人公と呼べるような人物は出てこない。宣伝写真には、涙を流している黒人女歌手の姿が映っているので、彼女が主人公かと思ってしまうが、映画の内容はこの写真から連想されるようなメロドラマではまったくない。

彼女が住んでいる家は、複数の家族が住むいくつかの家が隣接している、日本でいうところの長屋タイプの家屋だ。その裏が共通の中庭になっていて、そこでなにやら裁判らしきものが行われているらしい。この映画は、その裁判の場面を中心に進んでいく。

裁判といっても、鶏が盗まれただの、だれそれが村の禁忌を犯しただのといった裁判ではない。争っているのは、マリの市民たちと、彼らが自国の貧困の原因であると考える世界銀行IMF となのだ。非常に知的な会話がやりとりされるので、英語字幕で内容を正確に追っていくのはなかなか難しい。だが、なにが問題となっているのかは、明らかだろう。西欧諸国は、この国に多額の資金援助をしているではないかと主張するのだが、この国(あるいはアフリカ)は、その貧しさではなく、西洋諸国によって生み出されたまさにその豊かさの犠牲者であるのだ。

映画はこの裁判の模様をドキュメンタリータッチで追っていく一方で、一見裁判とは無関係に法廷の外で流れていく日常の描写を時折挿入してみせる。屋外スピーカーから流れてくる裁判のやりとりを聞くともなく聞いているものもいるが、多くは、そんな裁判などどこ吹く風といった様子だ。この無関心は半分が無知が生み出したものだろう。あの女歌手も、法廷に突然現れて誰かを大声で呼び、背中のジッパーをあげてもらって去ってゆくだけで、裁判にはさして関心を持っているようには見えない。むしろ息子の病気のほうが気がかりだ。

そして静かに死んでゆく人たち。法廷をテレビ取材しているカメラマンがつぶやく。「こんな裁判を撮るよりも、死人を撮ったほうが絵になる」。

アフリカ映画はそれほど見ているわけではないので、大きなことはいえないが、初めて見るタイプの作品だった。この大陸にも新たな才能が台頭しつつあることを予感させる映画である。センベーヌやシセの映画などよりも、ジャン・ルーシュの諸作品などにより近いという印象を持った。

映画で描かれる裁判は、無論、フィクションの裁判なのだが、その裁判を演じている人物たちの多くはおそらく本物のマリの市民たちである。ここでのフィクションと現実の関係は、『気違い首長』などのルーシュの民族映画における「演技」の問題を思い出させる。

フィクションといえば、この映画には、マリの家族がテレビで見る西部劇が、映画-内-映画の形で挿入される。このミニ・ウエスタンが語る物語には様々なメタファーが込められていると思うのだが、そもそも "western" という言葉自体、「西洋」を意味する言葉であることを忘れてはならないだろう。

この西部劇には、『リーサル・ウェポン』のダニー・グローヴァーがカウボーイの役で出演していて、おやっと思わせる(彼はこの映画のプロデューサーでもあるのだ)。もう一人見覚えのあるカウボーイがいるので、だれだったかなと思ってよく見ると、なんとあのエリア・スレイマンだった。こういうことがあるから映画はおもしろい。監督とは友人だそうだ(ちなみに、この映画が出品された年のカンヌで、エリア・スレイマンは審査員だった)。

下写真はアメリカ版。

フランス版 もある(レヴューが多いのでこのページにリンクしておいたが、もう少し安い版も出ている)。