明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

芝居をせんとや生れけむ〜『二重生活』『Shakespeare-Wallah』

ジョージ・キューカー『二重生活』A Double Life


40年代末から50年代末にかけてキューカーは、ガーソン・ケニンとルース・ゴードン夫妻の脚本をもとに、『アダム氏とマダム』『ボーン・イエスタディ』『有名になる方法教えます』をはじめとする傑作7本を、立て続けに撮っている。キューカーがケニン夫妻と組んだ作品はほとんどがコメディだが、最初の作品『二重生活』だけはとてもシリアスで、ノワールな作品だ。


フランスでの公開タイトル「Othello」が物語るように、この映画はシェイクスピアの『オセロ』のかなり自由な翻案と考えることも出来る。

ロナルド・コールマン演じる有名な舞台俳優が、この映画の主役だ。冒頭、彼に挨拶された男が、「あいつはいいやつだ」というと、その場にいた別の男が、「ひどいやつさ」と応じる。その直後、コールマンに声をかけられた女が、「すてきな人ね」というと、一緒にいた女性がすかさず、「最低の男よ」と答える。こんなふうに、観客におやっと思わせるやりとりで映画は始まる。

名優ではあるが、この俳優にはひとつ問題があって、それは演技にあまりにものめり込みすぎて、芝居の公演がつづいているあいだずっと、自分が演じているキャラクターを引きずってしまうことだ。だから、コメディを演じているときは、陽気な人間なのだが、いやな人物を演じているときは、最低の人物にもなる。前の妻と離婚する羽目になったのは、そんな性格が災いしたためだ。

彼が最初、『オセロ』役を断るのは、なにか悪い予感がしたためかもしれない。しかし、結局は出演することになり、彼の『オセロ』は大ヒットする。デスデモーナの役を演じるのは、彼の元妻だ。彼の人格はやがてオセロに乗っ取られ、フィクションと現実の区別が次第に出来なくなってゆく。ついには元妻の不実を疑いはじめ、やがて殺人事件まで引き起こすことになる……。

フィクションと現実の二重生活。舞台上の『オセロ』と、主人公の妄想のなかで『オセロ』と重なってゆく現実の二重構造。アイダ・ルピノの『二重結婚者』では、二重生活を生きる哀しい男を演じていたエドモンド・オブライエンが、ここでは逆に、二重生活を告発する役回りを演じているところが面白い。

この作品は、しばしばフィルム・ノワールの一本に数えられる。映画のなかで殺人が起きるのは、物語のやっと後半になってからだが、ミルトン・クラスナーによるロー・キーで撮られたコントラストの強い画面は、終始作品に不安な雰囲気を与えており、この映画をキューカーとしては例外的なぐらい陰鬱なものたらしめている。しかし一方で、「鏡を撮った男」(武田潔)クラスナーが執拗に映し出してみせる反射のイメージは、『男装』や『スタア誕生』といった多くのキューカー作品に描かれる「演技」と「実像」という主題と響きあい、この作品を実にキューカー的なものにしているといっていい。

キューカーがこのような作品を撮れたのは、製作したのがそれまでの古巣MGMではなく、ユニヴァーサルだったことが大きな要因だったはずだ。絢爛豪華なMGMでは、『二重生活』のような実験的作品は作らせてもらえなかったろう。実際、この作品の成功が、MGMに『アスファルト・ジャングル』を作らせる決断をさせたのにもかかわらず、MGMの首脳陣は、完成した『アスファルト・ジャングル』にあまり好印象を持たなかったという。

また、この作品に描かれるニューヨークの描写を、『裸の町』のニューヨーク・ロケに先立つものと見ることも出来る。こういうふうに見てくると、映画史的にもこの作品は密かに重要な役割を果たしているといっていいだろう。

「鏡像」「分身」「アイデンティティの喪失」といった現代的なテーマが扱われている作品だが、そこはジョージ・キューカーだ、観客を真の意味で不安に陥れることは決してない、古典的な風貌に収まっている。


[関係ないが、思い出したのでついでに書いておく。最近、ロバート・シオドマク『暗い鏡』を久しぶりに見直した。オリヴィア・デ・ハヴィランドが一卵性双生児の姉妹を演じる犯罪スリラーだ。どちらが姉でどちらが妹なのか時に区別がつかなくなる、めくるめく映画というふうに覚えていたのだが、見直してみて、二人を演じるハヴィランドの服には、必ず名前が書いてあることに気づいた。映画のなかでは、彼女が勤める店の店員をふくめ、だれも彼女たちが双子だと気づいていなかったという設定になっているのだから、服に名前が書かれているのは、観客に区別しやすくするためとしか思えない。なんて親切なんだ! しかし、最後に生き残る正常な方のハヴィランドの利き腕が逆になっていたような……。まさか、『スキャナーズ』じゃあるまいし、わたしの勘違いだろう。(ちなみに、この作品もミルトン・クラスナーがキャメラを担当している。無論、どこもかしこも鏡だらけの映画だ。)]


ジェームズ・アイヴォリー『インドのシェイクスピア』(SHAKESPEARE-WALLAH, 65, 未)


『二重生活』について予定以上に長く書いてしまったので、こちらは簡単に紹介しておく。

ジェームズ・アイヴォリーという監督にはほとんど興味を持っていないのだが、あるところでゴダールが、「とても素晴らしい作品」と書いているのを読んで以来、この作品だけはずっと見たいと思っていたのだ。結論からいうなら、その後のアイヴォリー作品と大差のない作品だった。しかし、描かれているテーマが興味深かったし、低予算で撮られているためか、文芸映画っぽくないところも悪くない。

アイヴォリーが一時期、インドで暮らしていたことは意外と知られていないようだ。インドについてのドキュメンタリーを依頼されたのをきっかけに、彼はインドに数年間滞在することになり、そこでインドを舞台にした映画を何本か撮っている。『インドのシェイクスピア』もその一本だ。アイヴォリーを国際的に有名にしたのは、この作品だった。(ちなみに、インドで撮られたドキュメンタリー作品『The Delhi Way』も、『SHAKESPEARE-WALLAH』の DVD のなかに収められている。)


この映画が描くのは、英国による植民地主義の薄れゆくインドで、シェイクスピアを演じて旅回りをしている英国人一家の一座だ。この頃には、演劇はかつてのような娯楽の中心ではなく、映画に取って代わられようとしている。今まで芝居をさせてもらっていた小屋に、次回からの公演を断られるなど、一座の先行きも明るくない。そんなとき、看板女優の娘が、旅先でインドの金持ちのプレイボーイに恋をするのだが、彼にはすでに愛人がいて、それが皮肉なことに、有名な映画女優なのだ。

プレイボーイのお遊びには慣れっこの映画女優が、それでも我慢できなくて、彼の新しい恋人が出演している舞台を見に行く場面がある。自分が2階桟敷に現れれば、観客はお芝居などそっちのけで、自分に注目が集まることがわかっていての、嫌がらせだ。恋の三角関係に、演劇という伝統文化の衰退と、映画の台頭が重ねられているところがわかりやすい。おそらく、シェイクスピアなど一度も読んだことがないに違いない無知な映画女優の姿に、映画という芸術がもともと持っているある種の野蛮さのようなものが体現されているようにも思える(もちろん、制作者にその意図はなかったろうが)。