明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

キューバ・リブレ〜『ある官僚の死』『12の椅子』

トマス・グティエレス・アレア『ある官僚の死』(66)


この作品については、一度紹介しようと思ったことがあったのだが、さして興味を引きそうにもなかったので、書く前にボツにしてしまっていた。日本ではほとんど見る機会がないし、海外の DVD をわざわざ注文してまで見ようと思う人間もいないだろう。書いても無駄だ。

──と思っていたら、「キューバ映画祭2009」というのが開催され、ここでこの作品が上映されることがわかった。すでに東京での上映は終わっているが、12月12日から京都シネマでも開催されるようなので、関西の人にはこれから見ることが出来る。というわけで、簡単に紹介しておく。


グティエレス・アレアは、言うまでもなく、キューバを代表する映画作家で、今回上映される作品12本のうち、実に4本が彼の長編である(短編もふくめれば、プログラムのほぼ半分が彼の作品だ)。


正直言うと、この人がそんなにすごい監督だとは思っていない。ただ、『苺とチョコレート』『低開発の記憶』といったシリアスな作品ばかりが公開されて、彼のコメディが全然紹介されていないというのは、どうにもバランスが悪い。本人がどう思っているかはともかく、わたしが思うに、この監督の本領はコメディにあるように思えるのだ。『ある官僚の死』はそんな彼のコメディの代表作である。


社会主義キューバでひとりの模範的な労働者が亡くなり、埋葬された。未亡人が役所に年金を受け取りに行くと、それには死んだ夫の組合員証が必要だということがわかる。ところが、その組合員証は棺といっしょに埋葬してしまったので、手元にない。だったら遺体を掘り起こして、組合員証を取り戻せばいいだけのことだ。そのはずだった……。未亡人の甥が組合員証を取り戻そうとするが、遺体を掘り起こす許可は簡単には下りない。しかたなく甥は、真夜中、墓地に行って、無断で死体を掘り起こす。だが、その最中に、警官に見つかってしまい、慌てて死体を家に持って帰る。今度は、掘り起こした死体を元に戻さなければならない。ところが、またしても役所の許可が下りない。すでに埋葬してある死体を、また埋葬することなど出来ないというのだ……。


硬直したシステムから生まれる滑稽な状況を描いたこの映画は、ときに安直に「カフカ的」などと評されもする。だが、この作品は、官僚制というものを、『未来世紀ブラジル』のように、日常の向こうにある異様な世界、あるいは日常の底に潜む不条理として描くのではなく、キューバ社会主義の日常そのものとして風刺している。

一つの死体を巡る騒動という意味では、『ハリーの災難』に似ていなくもないが、ブラック・コメディというよりは、スラップ・スティック色のほうがはるかに強い作品だ。墓場の場面は、ローレル・ハーディの短編を思わせるし、主人公が役所の時計台にしがみつくロイドばりのシーンさえある。ここにハリウッド喜劇の影響を見て取るのはたやすい。もっとも、ここにはたんなるオマージュというよりは、資本主義国アメリカ製のコメディに対するパロディ的な意味も多分に込められているのだろう。



キューバ映画祭2009」で上映されるグティエレス・アレアのもう一本、『12の椅子』(62)も彼のコメディの代表作の一つだが、『ある官僚の死』とくらべると、オリジナリティに欠けるし、あまり成功しているともいえない。しかし、社会主義に移行して間もないキューバ社会のありようは、『ある官僚の死』以上にこの作品にくっきりと表れているともいえる。

キューバ社会主義政権に変わったために、財産を政府に没収されてしまったひとりのブルジョワ男が、この映画の主人公だ。彼の叔母は、死ぬ直前、高価なダイヤモンドを、自宅の12個ある椅子の一つに隠していた。しかし、その椅子はすべて政府に没収され、国中にばらばらに引き取られてしまっている。しかも、まったく同じかたちをした12の椅子の、どれにそのダイアが隠されているかわからない。男は、椅子の行方を追って、しらみつぶしに探してゆくが、見つかった椅子はどれもハズレ。その上、ダイアのことを知っているライヴァルが、同じように椅子を探していることがわかり、ますます焦り始める……。

この映画を見ていて思い浮かべたのは、ハリウッド喜劇ではなく、イーリング・コメディ『ラベンダー・ヒル・モブ』だ。盗んだ金塊をエッフェル塔のミニチュアに変えたまではいいものの、手違いでそれがどこに行ったかわからなくなるという後半のくだりが、似ていなくもないのだ。もちろん、影響関係云々をいっているのではない。ただ、グティエレス・アレアが影響を受けたのは、よく指摘されるネオ・リアリズム(彼は、戦後間もないころ、ローマに留学して、ネオ・リアリズムの洗礼を受けている)だけでないのはたしかだろう。

このお話自体は、当時としてもそれほど目新しいものではなかったかもしれないが、この映画の真の見所は、主人公が椅子の行方を追うのと同時に、キューバ社会主義の様々な現実をキャメラが切り取っていくところにある。グティエレス・アレアは、この映画の撮影中、ロケハンで見つけた場所が、次に行ったときには、ブルジョワの邸宅がアート・スクールにといったぐあいに、以前の面影がないぐらい変わってしまっていたという体験を何度もしたという。ここに描かれているのは、急激な勢いで変わりつつあるキューバの姿だ。そういう観点で見るなら、なかなかに興味深い作品である。



グティエレス・アレアは、革命前のキューバで、ネストール・アルメンドロスと何度も活動をともにしている。アルメンドロスはその後、社会主義化したキューバを離れ、キューバを外側から批判的に描くドキュメンタリーを製作するが、グティエレス・アレアは、社会主義に移行したキューバで数々のプロパガンダ映画を撮り、やがてキューバを代表する監督になってゆく。彼の長編劇映画は、決して、現状を盲目的に肯定するものではなく、キューバの社会を批判的に描く視点も持ちあわせており、『低開発の記憶』のようにニュアンスに富んでいたりする。しかし、アルメンドロスが撮ったドキュメンタリーと比較すると、やはりどうしても踏み込みが甘く見えてしまうのもたしかだ。

キューバ映画祭2009」には、アルメンドロスの作品が入っていないのは残念である。彼もキューバにおけるゲイの抑圧された状況を描いていたはずなので、グティエレス・アレアの作品と比較してみれば興味深かったろう。このブログで紹介した『怒りのキューバ』が入っていないのも、もったいない(『怒りのキューバ』は、今年になって3枚組の DVD コレクターズ・エディションがでている。スコセッシがいつものように熱っぽい早口で、この映画のことを語っている特典映像もはいっている)。いずれも厳密に言うなら、キューバ映画にはならないのかもしれない。しかし、事情が許すなら、これらの周辺作品もぜひ入れてほしかった。(アルメンドロスとキューバの関係については、『キャメラを持った男』を参照。)


下写真は、アルメンドロスがキューバを描いたドキュメンタリー『Nobody Listened』