明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

フィリピン・コネクション〜ヘルマンからブロッカへ

モンテ・ヘルマンのおよそ20年ぶりとなる長編劇映画の新作が、まもなく公開されようとしている(日本公開は未定。というか、まだポスト・プロダクションの段階と思われ、完成しているかどうかも定かでない)。タイトルは、「Road to Nowhere」。泣かせるタイトルだ。『断絶』の続編みたいな題だが、意外にも、映画撮影をめぐる犯罪映画のようである。数号前の「カイエ」に特集が組まれている(見る前によけいな情報を知りたくないので、いっさい読んでいないが)。


☆ ☆ ☆


さて、これからはもう少し、アジア映画について積極的に書いていこうと思う。まずは、わたしの大好きなリノ・ブロッカから。




『Insiang』

リノ・ブロッカ作品でなにか一つ選べといわれたら、『マニラ 光る爪』を選ぶ人が多いだろう。わたしもそうだ。しかし、国際的な知名度という点では、この『Insiang』もなかなかのものである。なにしろこれは、カンヌではじめて上映されたフィリピン映画なのだ(ちなみに、この映画をカンヌにもたらしたのは、またしてもピエール・リシアンだった)。

リノ・ブロッカとフィリピン映画を世に知らしめたこの映画は、彼の作品のなかでは、メロドラマの系列に属するといえるだろう。スラム街のような貧しい一角にすむ母娘。育ててやった恩を忘れたかとばかりに、娘をこき使う抑圧的な母親は、やがて息子ほども年の離れた愛人を家に引き入れる。だが、男の目当ては娘のほうだった。母親の愛人に乱暴され、絶望した娘は、この環境から恋人とともに逃げだそうとするが、恋人にも裏切られ、失意のうちに帰宅する。娘は愛人に、自分を裏切った恋人をリンチさせ、その愛人を母親の嫉妬心を利用して殺させる。ラストの母と娘の断絶のシーンが、唯一の救いに見えてくるほど、物語には救いがない。




『神への祈り』

修道院で暮らしていた汚れを知らない少女が、何者かにレイプされ、犯人の子供を妊娠する。少女は、子供を手放すことを拒んで、修道院から逃げ出す。転落の人生を歩む彼女がやっとつかんだ幸せな結婚相手は、実はレイプ犯だった。『O公爵夫人』を思わせる展開だが、むろん、あんな風に丸く収まるわけがない。

宗教的背景、貧しい社会環境、残酷な展開。メキシコ時代のブニュエルと比較したくなるような作品である。最後におきる嘘のような奇跡もブニュエルっぽいが、ブニュエル作品ならついニヤリとしてしまう、そんな取ってつけたような結末が泣かせるのは、一見何もかも安っぽいこの映画が、実は、とても丁寧に描かれているからだ。



どちらの主人公も、他のブロッカ作品同様、映画が始まったときと終わったときでは、まるで別人に変化している(修道院で始まり修道院で終わる『神への祈り』のほうが、その変わり様はより鮮やかに映し出されているといっていい)。『目覚めよマルハ』ではないが、リノ・ブロッカの映画はどれも、一言でいうなら、「意識の目覚め」の物語なのだ。この目覚めの物語を、メロドラマとアクションへと矛盾なく融合させたところが、ブロッカ作品の醍醐味である。『Insiang』の一見救いのない物語も、眠っていたヒロインが最後に目覚めるという点では、どこまでもポジティヴなのだ。



リノ・ブロッカは、実は、映画監督になる前に、モンテ・ヘルマンのもとで働いた経験を持つ(なんたる偶然!)。『Flight to Fury』や『Back Door to Hell』といった、フィリピンで撮られたヘルマンの第二次大戦ものの撮影に、スクリプト・アドヴァイザーとして参加していたのだ。

四方田犬彦『アジア映画の大衆的想像力』によると、フィリピンを半世紀近く植民地支配していたアメリカは、「アジアのハリウッドをマニラに建設しようという、はっきりとした意図をもって植民地経営を行った」という。そういうわけで、フィリピン映画はこの頃には非常に隆盛を極めていたと思われる。まだ映画を撮りはじめる前のリノ・ブロッカが、モンテ・ヘルマン組に参加したのは、そんなころだった。ブロッカは、モンテ・ヘルマンの撮影現場で、映画作りのノウハウを学んだのである。(ブロッカが登場したときの、フィリピン映画とアジア映画の状況は、四方田犬彦の同書を参照。もっとも、四方田はモンテ・ヘルマンのことにはまったくふれていない。)

だから、ブロッカの低予算早撮りはモンテ・ヘルマン譲りのものだったのだ──、と話をまとめたいところだが、実情は違っていたようだ。ミシェル・シマンの『Petite planète cinématographique』のインタビューによると、何度もテイクを取り直したり、些細なことでもめて撮影をストップするモンテ・ヘルマンの撮影ぶりを、ブロッカは「遅すぎる」と感じたらしい。ロジャー・コーマン仕込みのモンテ・ヘルマンの映画作りさえ、やがてフィリピンを代表する監督となるこの青年には、贅沢なものと思えたのだ。このことだけでも、ブロッカの映画は、ハリウッド流の映画に対する批評となり得ている。