明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『マニラ・光る爪』『カカバカバ・カ・バ』『エリアナ、エリアナ』

シネ・ヌーヴォの「アジア映画の巨匠たち」で、リノ・ブロッカ『マニラ・光る爪』、マイク・デ・レオン『カカバカバ・カ・バ』、リリ・リザ『エリアナエリアナ』の3本をつづけて見る(キム・ギオンの『下女』は見ているのでパス)。一日3本なんてずいぶん久しぶりだ。というか、今年、映画館で映画を見るのは、実はこれがはじめてだった。年々、映画館から足が遠のいていく。

リノ・ブロッカ『マニラ・光る爪』(75)

リノ・ブロッカについては、少し前に書いた。『マニラ・光る爪』を見たのは大昔なので、そろそろ見直したいと思っていたところだった。テレビ放送を録画したビデオがあることはあるのだが、3倍速で録画したもので、今さらそんな質の悪い状態で見る気がしない。いいタイミングで、フィルムで上映してくれた。


久しぶりに見たが、『マニラ』はやはり名作だった。貧しさを売り物にした括弧付きの「第三世界の映画」に限りなく近い映画ではある。スターなし、予算なしの映画で、ストーリー展開も地味だったりするのだが、出口なしの状況がじわじわと主人公だけでなく、観客をもエモーショナルに追い詰めてゆく。ブロッカの映画は、前半では想像がつかないほど後半が盛り上がるのだ。

主人公が働く工事現場では、雇い主が公然と給料をピンハネし、主人公が探し続ける行方不明の恋人は、悪い女にだまされ、売春婦として働かされている。すべてを支配しているのは、搾取する者とされる者との、絶望的にどうしようもない関係だ。工事現場をクビになった主人公は、ゲイボーイに誘われて、男に体を売りさえする。しかしそれも一時しのぎでしかない。

ゲイたちがたむろしている公園の背景に、「NEC」や「SANYO」と書かれた嘘のように巨大なネオンサインが浮かび上がる。恋人を死なせた華僑を殺しに売春宿に乗り込んでゆく主人公が直前に横切る通りを、「打倒、帝国主義」と書かれた真っ赤なプラカードを掲げたデモ隊が練り歩いてゆく。華僑を殺したあと、文字通り袋小路に追い詰められた主人公が、声にならない叫び声を上げるところで、映画は終わっている。

マイク・デ・レオン『カカバカバ・カ・バ』(80)

若くして交通事故で不慮の死を遂げたリノ・ブロッカの後継者と目される監督、マイク・デ・レオンによるミュージカル調のコメディ。麻薬によるフィリピン支配を企む日本人のやくざが、麻薬をカセット・テープに偽装して、フィリピン人の旅行者の上着のポケットに忍ばせて国内に持ち込むことにまでは成功したものの、テープの回収にことごとく失敗し、そこに中国系マフィアまでが加わり、大騒動になってゆく。この手のバカっぽいノリの映画は苦手なので、前半少しうとうとしてしまったが、会場はうけていた。しかし、お馬鹿な見かけとは裏腹に、社会批判の過激さは『マニラ・光る爪』以上だといえるかもしれない。『マニラ』のわずか5年後に撮られた映画だが、『マニラ』で背景に描かれていたジャパン・マネーや華僑の存在は、この映画では、深刻さとは一見無縁に思える狂騒的な笑いとともに、まったく別の角度から風刺されている。この映画の笑いの背後に見え隠れしているのは、リノ・ブロッカの映画が描いたようなやり方では、フィリピン社会の現実はすでに捉えきれないものになっているという鋭い現状認識だ。

リリ・リザ『エリアナ、エリアナ』

家出をして都会で暮らす娘のもとに、母親が彼女を故郷に連れ戻しに来る。娘のほうは、どこかに消えてしまったルームメイトのことが気になって、母親と向き合うことが出来ない。母娘の再会を一日の出来事として描いた作品で、手持ちキャメラを使ったドキュメンタリー・タッチの演出が、都会の孤独を鮮やかに浮き上がらせるインドネシア映画の佳作だ。


普通の人は気にならないのだろうが、デジタル映像特有の画面の汚さが、わたしには見ていて気になった。最近は、フィルムでの上映だと思ってわざわざ遠くまで見にいったら、DVD上映だったり、DVD をもとにフィルムに焼いたものでの上映だったりといったこと(「デジタル上映」というよくわからない新語が使われたりする)が、とくに断りもなく平気でおこなわれている。観客も大してそのあたりの質の違いは気にしていなかったりするようなので、フィルム特有の質感がわからない人もどんどん増えつつあるのだろう。この映画も、チラシにはなんの情報もないので、見ながら、これはもともとフィルムで撮ったものを、いわゆる「デジタル上映」したものなのか、それとも最初からデジタル撮影したものなのか、などと考えながら見てしまった。DVD をもっている作品でも、フィルムで見られると思って映画館まで足を運ぶこともあるのだから、情報誌にそこまで詳しい情報を載せるのは無理としても、せめてチラシにはそのへんを明示しておいてほしい。

たぶんそうなのだろうと思ってはいたが、あとで確認したら、やはりこの映画は全編デジタル撮影したものだった。最初からわかって見ていたら、映像の荒さもとくに気にならなかっただろう。